マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、“ババル大虐殺 元大尉「すまない」”。

この報道は、福岡県の戦史研究家の武富登巳男氏が、偶然入手した、旧日本軍第五師団参謀部作製の極秘書類『ババル島事件関係書類綴』が発端となっている。同極秘書類は1987年7月に、『十五年戦争極秘資料集 第二集 ババル島事件関係書類』と題して不二出版によって復刻されている。

同書類綴では、戦争犯罪人の追及を避けるために、虐殺の実行者である第五師団歩兵第四十二連隊第十二中隊長から師団長宛ての報告内容が、改ざん・変更されていく過程が克明に記録されている。

この『朝日』報道を受け、インドネシアの有力誌『TEMPO』も、1986年12月3日号(No.42 Tahun XVI)で「Penaklukan di Pulau Babar」の見出しで、同虐殺事件を伝えている。

同極秘報告書では、第一次討伐(1944年11月3日~9日?)で「約百名ヲ銃殺及捕へタル」、そして第二次討伐(1944年11日~21日?)では「約四百名ハ現地ニ於テ銃殺」と記している。つまり、日本軍サイドの報告では、500名近くのエンプラワス村の村人が虐殺されたことになる。(注:同極秘報告書では村の人口は717名となっている)

一方、『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、1992年9月に現地で行った住民に対するインタビューの結果、多くが虐殺された人数として700名だったと証言、また同村が作成中だった虐殺名簿には704人の姓名が記載されていたとされる。

(注)日本軍の極秘報告書『ババル島事件関係書類綴』からは、“討伐”期間が1944年11月3日~21日(四百名の銃殺は11月20日か?)と推定されるが、『上智アジア学』第10号(1992年)の「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」によれば、地元では1944年10月5日を、大量虐殺の日としているという。また、現MTB(南東マルク県)副県知事のバルナバス・オルノ氏も1996年に書き上げた同虐殺事件の全貌をまとめた文章の中で、大虐殺の発生日を1944年10月5日としている。尚、この一カ月以上もの“誤差”が何故に生じているのかは不明。



上の画像:MTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さん。1943年生まれ。ババル島出身。ババル島で郡長を経験。妻は、戦時中、日本軍による住民虐殺事件が起きたババル島南部のエンプラワス村出身。1991年から、同虐殺事件に関して住民インタビューを開始、同時に資料収集を進め、1996年に『1944年ババル諸島の人権侵害に対する日本軍の残忍性を調査:ティウィ川は1944年10月5日の流血の悲劇の黙した証言者(Menelusuri Kekejaman Tentara Jepang Terhadap PELANGGARAN Hak Asasi Manusia Di Kepulauan Babar・Tahun 1944:Kali Tiwi Saksi Bisu TRAGEDI BERDARAH 5 Oktober 1944)』を書き上げたが未出版。






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ババル(Babar)島は、バンダ(Banda)海に浮かぶ、東西およそ30km、南北およそ30kmのオニギリのような形をした小島。ダーウィンからおよそ500kmの距離にあり、東のタニンバル諸島と並んで、太平洋戦争時代、日本軍の“最前線”として連合国軍と対峙した。同島には、陸軍の第5師団歩兵第42連隊(司令部はタニンバル諸島)の一部が駐屯していた。また、アンボンからは海軍の警備部隊が駐屯していた。


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MTB(西南東マルク)県政府が作成したババル諸島<ババル島を中心に周辺には西にウェタン(Wetan)島、北にダイ(Dai)島、北東にダウェラ(Dawera)島、ダウェロール(Daweloor)島、そして南東にマセラ(Masela)島などがある>の観光開発計画によれば、同島はマリン・リゾート、農園ツーリズム、ユーカリ・リゾートと並んで、日本軍による虐殺事件が起きたエンプラワス村は“歴史リゾート”を目指している。また、マセラ島周辺海域は原油とガスを埋蔵しているとされ、その開発もターゲットに据えている。


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以下は、バルナバス・オルノMTB県副知事とのインタビューの概要(尚、インタビューは2007年8月13日、MTB県の県庁副県知事執務室で行った)


『実を言うと、エンプラワスという名前の村があることは知っていたが、事件についてはまったく知らなかった。そして知らなかったから、本を書こうとも思っていなかった。少なくとも、1990年に今の妻とつきあい始める時までは。(エンプラワス村の)彼女の家で、当時はまだ義理の父候補で今は義父となった彼女のお父さんから、エンプラワス村で起きた日本軍による虐殺の悲劇に関して話を聞いた。義父は、その話をする時、幾度も言葉に詰まった。思い出して涙を抑えきれなかったからだ。なぜなら義父は実の兄弟や、両親そしてその他の村人たち全員が目の前で一斉掃射されたのだから』

『私は義父に尋ねた。1970年代、牧師が地元紙にエンプラワス村で虐殺された村人の数はおよそ700人と話したが、その通りか、と。義父は答えた。「700人程度ではない。なぜなら当時、エンプラワス村の人口は1,000人以上だったが、虐殺の後には100人も生き残っていなかった」と。私は時間をかけて、何度も、義父に知っていることを話すように仕向けた。全てのトラウマを吐き出して下さい、私はいつか事件について本を書きたいから、と頼みました。そして義父は最終的には全てを話してくれました。一方で、私は、事件について知っている他の村人たちから聞き取りを始めました。私の実の父の話も含めて。当時父はまだ子供だったけれど、人から聞いていた』

『父の話によれば、エンプラワス村のティウィ川で虐殺がまさに行われるという時、ワクパパピ村長など、近辺のすべての村長が招待された。そして(日本軍は)この中に兄弟など縁者はいるか?と村長らに尋ね、指名された者は自由の身になり、その他の者は虐殺された』

『1991年、私と妻は結婚した。私は公務員になって、マルク州政府の社会局に入った。まだババルに住んでいた頃、エンプラワスの村人は“日本軍の残り”という言い方があった。残りなんていう表現は間違いだ。彼らは日本軍に抵抗した立派な独立闘争貢献者であり、このインドネシア共和国から占領者を追い払おうとした英雄行為を国は認めなければいけない』

『1996年に独立記念日の催しの一つとして、ケイ諸島のトゥアルでババル島出身家族会が催された。そこで、アイデアが出た。旧日本軍による虐殺事件に関してセミナーをババル島で開こうと。目的は、賠償云々を言う前に、占領者に抵抗した崇高な島民がいた史実を、インドネシアの中央政府が知らなければならない、という観点だった。インドネシアの独立闘争の中で、南東マルク県(注:後にババル島は西南東マルク県に入る)にあっても、ババル島のエンプラワスの貢献などのように、マルク人も、ババル人も貢献したんだという史実を表面化させようと。そこでセミナーのための委員会ができ、私は事務局長になった。そしてババル島でセミナーが実施され、そのセミナーの結果は中央政府に届けた。その時の願いは、賠償問題よりも、まずは政府が、占領者を追い出そうとした抵抗運動に正しい評価を与えるということだった。そして、もしも可能ならば、中央政府が、彼らババルの犠牲者に対する補償に関して、地元に代わって努力してくれないか、と。そのセミナーの場では、毎年10月に、事件を記憶するための慰霊の日を定めることも合意した』

『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』

『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探しとタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』

『しかし、牧師や村長らは、それらの要求は呑めないと答えた。死んでも受け入れられないと。物資ならいいが女性は認めるわけにはいかない。タバコはいいが女性は人としての尊厳・威信から無理だと。それでトラブルになった。結果、シノハラとスパイらは村人に殺された。村人は予想した。シノハラらが帰らなければ、必ずや日本軍は報復してくるだろうと。これでは安全ではない。三日後ぐらいには日本軍が攻撃してくるだろうと。そこで、日本軍に抵抗しなければ、となった』

『当時の教会のデータによれば、当時エンプラワスは3つの集落で一村を形成、ババル島で一番大きな村だった。エンプラワス村長は近辺の村々に呼びかけて、一緒に日本軍へ抵抗しようと訴えた。尊厳と威信を守るため、日本軍と闘おうと。トゥトゥアワン村は同意。そしてマヌウェリ村も同調。アナルトゥール村も賛同。しかしココアリ村まで行った際、そこには日本軍のポストがあり、村人の計画は日本軍の知るところとなった。そこで、日本軍の襲撃前に、村人は山へと逃げた。エンプラワス村の家々はすべて焼かれてしまった』

『後日、日本軍は、使者を山へ送ったり、森の中に書いたものを貼り、村人に対して日本軍はもう怒ってはいない、和解したいから下山しなさいと呼びかけた。山にこもった村人たちは、夜のみ動き回り、食べ物を探し、苦しい生活を余儀なくされた。飢えで死んだ子供たちもいた。やがて日本軍の呼びかけを信じた村人の多くが下山を決めた。その時、日本軍は、これは和平なんだから、鋭利なものは持ってくるなと命令した。しかし100人ぐらいは山から下りなかった。和平はエンプラワス村近くのティウィ(Tiwi)川で行うと日本軍は言った。二陣に分かれて村人は山から下りてきた』

『下山した村人を日本軍は三つのグループに分けた。最初のグループは、抵抗などの虞のない男たち、女性そして子供ら。二つ目のグループは抵抗勢力になりそうな屈強な男たちで、彼らは後ろ手に縛られた。第三のグループは、長老や慰安婦候補の若い女性たち。日本軍はまず二番目のグループを最初に殺した。義父は当時7歳でそのグループにいたが遺体の陰で生き延びた。日本軍はまず強い男たちのグループを抹殺し、それから次のグループの番と考えていたようだが、最初のグループが殺されたことから、残りの村人が騒ぎ出し、その瞬間から誰彼問わず射殺を始めた』

『奇麗な水のティウィ川は血の川に変わった。子供らは上に放りあげられ、銃剣で刺された。助けてという悲鳴が響いた。義父は両親、兄弟が目の前で殺されるのを見た。死んでいようが死んでいなかろうが、川に投げ込まれた。妊婦の腹は銃剣で裂かれ、中の赤子まで刺された。義父の記憶によれば、初めの頃は20人ぐらいがまだ川の中で息をしていたとか。引き上げる前に、スパイ(注:日本軍に就いたインドネシア人)らは、死んだかどうかの確認をし、まだ息をしている者は、銃剣で息の根を止めた。やがて満足した日本軍はワクパパピへ帰って行った』

『私は、エンプラワス村で虐殺された人数は、700人程度ではないと断言する。いわんや日本軍が報告したような400人とう数値はまったく事実とかけ離れている。1,000人近くの数になる。私はそれら犠牲者の名簿を持っている。さらに慰安婦にされた女性たちの数やその設置場所に関するデータもすべて分っている。私は、すでに書き上げた内容をいつでも出版できる立場にいる。一方、賠償云々について私は発言する立場にはない。史実にどう向き合おうとするのか。そのことを日本に問いたい』



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シノハラ海軍嘱託から奪ったものとされる剣を手にするオルノ副知事


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『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集②:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版㈱


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昭和二十一年一月十七日、陸軍第五師団歩兵第四十二聯隊第十二中隊長の田代敏郎大尉が小堀金城第五師団長に報告した『ババル事件ニ関スル件報告』に始まる、同事件に関する一連の報告綴りの中に挿入されている「ババル島事件関係要図」(引用元:『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集②:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版㈱)


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衛星画像から見たババル島西部。テラ(Tela)村に日本海軍部隊が駐屯、旧エンプラワス村は虐殺事件発生現場。同村は戦後、南東に移動した。


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左上から順に「篠原嘱託宿舎所在地」、「海軍部隊所在地」、「海軍見張所」、「憲兵詰所」、「事件発生部落(エンプラワス村)」


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以下は、陸軍本部のあったワクパパピ村や、同村からエンプラワス村までの間にある各村の衛星画像


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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200806article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200805article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200805article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200805article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200708article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200610article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200610article_4.html

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    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />マノクワリ(Manokwari)は、西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都。人口は約15万。ここは、1855年2月5日、二人のドイツ人プロテスタント宣教師(Carel Wi.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-08 18:53
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />第二軍司令部が置かれたマノクワリ。昭和19年(1944)4~5月、連合軍が、日本軍の大飛行場群があった中部ニューギニアのホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ・Jayap.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-09 19:11
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17年(1942)年3月、日本軍(第16軍:司令官は今村均中将)はジャワ島に上陸、開戦92日目に、蘭印(オランダ領インドネシア)軍は降伏。同月末、大本営海軍部は、西部ニューギニアの要地を占領.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-10 18:37
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />第二方面軍並びに第二軍が統帥を発動する以前、飛行場設定部隊はいち早く西部ニューギニアに入り、フォーゲルコップ(オランダ語でVogelkop)半島(注:この地を日本軍は亀地区と呼称した)で偵察・調.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-11 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />「上司より指示せられた処では、軍の決戦時期が到来したならば約二個飛行師団を軍の正面に使用することとなるであろうとのことであった。然るに事実は余りにも甚だしく之れを裏切られた。軍として主力を賭すべ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-12 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁防衛研.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-13 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />“絶対国防圏”----日本と南方資源要域及び両者間の連絡地帯を防衛するための、必要最小限の要域圏であって、それより内には絶対に敵の作戦拠点獲得を許さないとする考え方(『戦史業書 西部ニューギニア.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-14 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />マノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月~11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとする日本.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-15 13:22
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“緑の地.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-16 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマッカー.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-17 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-18 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ144,000人(2003年統計)の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-19 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-20 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />秋田県の南南西およそ4,360km。あるいは四国の室戸岬の真南約3,590km。西部ニューギニアの北およそ190km。そこに、太平洋戦史にもほとんど登場しない、忘れ去られた小さな島がある。その名.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-21 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-22 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />日本兵が、乏しい水補給の中、赤道直下の炎熱下、ツルハシとモッコで造成したモクメル(Mokmer)飛行場(現在はフランス・カイシエポ空港)、そしてソリド(Sorido:第三モクメル)とボロコエ(第.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-23 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />連合軍は、ビアク(Biak)島上陸に先立つ一ヶ月の間に、計1,260トンもの爆弾を、まさにスコールのように、1万を超える日本軍将兵の頭上に降らせた。これ以前、連合軍は、昭和19(1944)年4月.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-24 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />「玉砕の島」の「玉砕の洞窟」。ビアク島の凄惨な戦いのシンボルが“西洞窟”だ。この西洞窟は、今ではビアク島随一の観光スポットと化している。それはちょうどハワイの真珠湾とアリゾナ記念館観光とも似てい.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-25 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25)B

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />赤道のほぼ真下、南緯1度、東経136度に位置するビアク(Biak)島は、足の形によく似た島だ。島の南岸が踵(かかと)、そして東端がつま先にあたる。島の北側1/3は山岳地帯、残りは台地状。珊瑚礁が.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-26 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ビアク(Biak)島の玉砕戦が余りにも有名で、その戦史に隠れがちだが、西隣にあるヌンホル(Numfor)島でも、実は壮絶・凄惨な戦いが繰り広げられた。しかも、ビアク島同様に、大本営は、この勾玉の.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-27 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ヌンホル島に日本軍の航空基地が完成・概成するやいなや、まさにビアク島の戦い同様に、連合軍は、事前の猛空爆に次いで、1944年7月2日、ヌンホル島に上陸してきた。エドウィン・パトリック(Edwin.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-28 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />フェールヴィンク湾周辺では日本軍占領当初、陸海軍合計17個の飛行場設定が計画されたが、昭和18(1943)年8月時点で完成していたものはナビレ(Nabire)の海軍飛行場1個のみだった。この飛行.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-29 00:00
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />富士山から真南へ約4,117km。世界で二番目に大きいニューギニア島の北岸に位置するサルミ(Sarmi)がある。現在はインドネシア最東端のパプア州サルミ県の県都が置かれている。同県は2003年4.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-30 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/07_arrowup_a.gif" />現在のサルミ半島部(衛星画像)。 Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2008-12-31 00:14
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />大本営は、昭和18(1943)年8~9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-02 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />豊島房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の建設に.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-03 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第103設.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-04 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至上命題.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-05 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面軍(.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-06 00:02
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-07 00:15
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-08 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-09 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオラ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-09 18:05
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-10 23:48
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、それで日本軍には.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-12 00:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天に恵ま.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-12 23:57
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian Jay.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-13 23:21
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />1623年、オランダ王室に仕える航海者ヤン・カルステンツ(Jan Carstensz:Jan Carstenszoon)は、アラフラ海を航海中、偶然、北の山脈に雪を抱く峰々を目撃した。雲に覆われ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-14 22:35
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />インドネシアそしてオセアニア地域で最高峰のジャヤ峰(Puncak Jaya:カルステンツ・ピラミッド=Carstensz Pyramid:4884m)。その“脇腹”で発見された、世界最大級の銅、.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-15 22:33
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />「2月10日、午前中は氷河の測量で過した。その結果は驚くべきもので、25年間に、カルステンツ氷河は452m後退し、メーレン氷河は745mも後退していた」----1936年末、オランダ王立地理学協.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-16 22:43
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) ジャヤ峰

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオー.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-17 23:12
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48)

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-18 21:48
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-19 22:26
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-20 22:57
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-21 22:14
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluk Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-22 23:45
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-23 23:23
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17(1942)年3月末~4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-25 17:10
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-26 00:29
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-27 23:38
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるよ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-28 22:40
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-29 23:14
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-30 22:32
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属してい.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-01-31 22:17
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-01 21:54
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941).. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-02 22:34
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941).. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-02 22:35
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-03 19:47
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-04 17:44
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プト.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-05 21:34
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-06 20:37
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-07 19:15
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-08 20:01
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表し.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-09 18:23
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-10 22:52
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-11 20:07
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-12 20:44
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-13 19:29
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-15 21:15
  • 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco082.gif" />年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第.. Weblog: インドネシア文化宮 racked: 2009-02-17 18:29
  • 西南東マルク県セラル島の動画の怪 Video Pulau Selaru, MTB Maluku

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco092.gif" />インドネシア文化宮(GBI)は、You Tube上に計567本の動画をアップしている。その中にあって、今日現在で第二位の再生回数を記録しているものが『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島S.. Weblog: インドネシア文化宮(GBI-Tokyo) racked: 2012-05-07 01:52
  • 西南東マルク県セラル島の動画の怪2: Video Pulau Selaru, MTB Maluku

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco092.gif" />去る5月7日付のインドネシア文化宮(GBI)ブログで紹介した動画『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』が、とうとうG.. Weblog: インドネシア文化宮(GBI-Tokyo) racked: 2012-05-19 21:52
  • 西南東マルク県セラル島の動画の怪3: Video Pulau Selaru, MTB Maluku

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco092.gif" />去る5月7日と5月20日付けのインドネシア文化宮(GBI)ブログで紹介したYou Tube掲載動画『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島 Selaru Islands MTB Maluku.. Weblog: インドネシア文化宮(GBI-Tokyo) racked: 2012-09-01 23:09
  • 西南東マルク県セラル島の動画の怪5: Video Pulau Selaru, MTB Maluku

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco092.gif" />インドネシア文化宮(GBI)がYou Tubeにアップしている動画は、すでに694本。これまで何度か、上位1~2位のヒット数についてレポートした。1位が『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル.. Weblog: インドネシア文化宮(GBI-Tokyo) racked: 2013-05-10 20:07
  • 動画「パプアからの未帰還兵展」が22万回の再生。Video PD-II &amp; Papua

    Excerpt: <img class="emoji" src="https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/hdeco/hdeco092.gif" />インドネシア文化宮(GBI)がYou Tubeにアップしている動画は、すでに791本。これまで何度か、上位1~2位のヒット数についてレポートしてきた。その内、再生回数が10万を超える動画は以下の二つ.. Weblog: インドネシア文化宮(GBI-Tokyo) racked: 2013-12-28 18:16