『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
昭和19(1944)年4月22日、連合軍はホランジア(現ジャヤプラ)へ上陸するが、その前月末、ホランジアには第4航空軍(寺本熊市中将)司令部と、その隷下にある第6飛行師団(板花義一中将)が東部ニューギニアのウェワク(Wewak)から後退してきていた。そして、瀧澤吉治曹長が戦闘機整備要員として所属する、第4航空軍隷下の第6飛行師団傘下の第14飛行団(徳永賢治大佐)隷下の飛行第68戦隊も、同年3月中旬、空中勤務者(パイロット)の主力と整備員の一部計約50名が(おそらく空路)ホランジアに移動していた。この約50名の中に瀧澤がいた。一方、地上勤務者の大多数(約180名)は、ウェワクに残留し、4月下旬ホランジアに向け陸路の移動を計画していたが、連合軍の同地上陸に伴い、西進を断念、そのまま終戦までウェワク南方の山中に留まった(注:残留部隊は第18軍に編入された。第68戦隊は同年7月25日、ハルマヘラ島で解散。残留部隊の指揮官は飛行第68戦隊長代理の岡崎次夫少佐。部隊はウェワク南方のコリヤンガに本部を置き、5月アイタペ作戦に参加したが、8月以降は山中で中隊ごとに自活態勢に入った。終戦時の生存者は約20名とされる)。ちなみにそれ以前、飛行第68戦隊(昭和19年1月~3月の戦隊長は田代完少佐。昭和19年4月~7月の戦隊長は貴島俊男少佐だが、ホランジアへ進出することはできずハルマヘラ島のワシレ基地在)は、東部ニューギニア北岸のウェワクやブーツ(But)で迎激戦を繰り返していた。
連合軍上陸直前の在ホランジアの第4航空軍の戦闘隊戦力状況表(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)によれば、三式戦闘機(飛燕)部隊である飛行第68戦隊は、その保有機が4機、整備完了機が2機、五日以内に準備完了機が2機だった。また操縦者は総員16名(技能的分類では、甲が7名、乙が2名、丙が7名)だった。
「馬賊の親分の様ですね デモとっても温いですよ」と裏書がある。上等兵と思われる肩章から推察して、昭和14~15年頃の撮影と思われる。当時、瀧澤は満州国牡丹江省東寧県観月台で関東軍歩兵第31連の第11中隊に所属していた。
瀧澤吉治さんは、日華事変(盧溝橋事件)が起きるおよそ3ヶ月前の昭和12(1937)年3月、岩手県盛岡の岩手中学校を卒業している。この前年には2.26事件が起き、日独防共協定が締結され、翌年には国家総動員法が成立している。刻一刻と太平洋戦争に突き進む、軍靴の響きがますます高まる時期だった。中学校卒業の月、瀧澤さんは、校内で行われた配属将校が実施した教練検定に合格した。そして翌年の12月10日には現役兵として歩兵第31連隊(第8師団隷下で青森県弘前で編成)留守隊の第8中隊に入営した。
伍長の肩章。瀧澤は昭和15(1940)年12月1日、伍長に進級。翌年の12月、軍曹に進級している。そして昭和18年12月、曹長に。
瀧澤がホランジアに移動した昭和19(1944)年3月中旬から、サルミ(Sarmi)東方のトム(トゥム:ToemもしくはTum)で戦死したとされる5月30日までの、第6飛行師団を中心としたホランジア→サルミの“転進”状況をクロノジカルに追うと以下のようになる。
3月25日:第4航空軍司令官寺本熊一中将がウェワクからホランジアへ後退。
3月26日:第6飛行師団長板花義一中将がホランジアへ後退。
3月30日:ホランジア大空襲。飛行機損傷120~130機。第7飛行師団を除く第4航空軍の出動可能機数は、戦闘機50機、軽爆10機、重爆15機。1月末に大本営が増派した5個戦隊も甚大な損傷を受けた。
4月1日:稲田正純少将(航空部隊勤務経験なし・第2野戦根拠地隊司令官・在マノクワリ)が第6飛行師団長心得、森本軍蔵少将(前第8飛行団長・在ワクデ・航空幕僚経験豊富)が第4航空軍参謀長、徳永賢治大佐(1943年12月以降、ホランジアで第14飛行団長・パイロット)が第6飛行師団参謀長に人事発令。
4月11日:16時、稲田正純少将マノクワリから第6飛行師団長心得としてホランジア第一飛行場に到着。
4月14日:新第14飛行団団長として恩田謙蔵大佐が着任。
4月15日:寺本熊一第4航空軍司令官がホランジアからメナドへ移動。
4月16日:午後、B-24、 B-25、P-38計約100機がホランジアに来襲。同日、ワクデ島にも初昼間爆撃。
4月17日:稲田師団長は幕僚らに対して、戦争全局の情勢判断。第6飛行師団は亀頭地区(注:西部ニューギニアの西部のフォーゲルコップ半島一帯)に適時後退し、ホランジアを機動飛行場として戦闘する意図を話す。
4月18日:午前、稲田師団長は第14飛行団の状況視察。午後、戦闘隊を集め訓示。「対米作戦の唯一の勝因たるべき人柱となり、できるだけ大勢の米人を冥途の道伴(づ)れにせよ。戦況は苦しくなるであらう。苦しくなればなるほど笑って死ね。決して無駄死にせぬやうにとしみじみ話す」(稲田日誌)。
4月21日:早朝、ホランジアは連合軍空母部隊の急襲を受ける。稲田師団長は、連日の出動に伴う疲労を考慮、空中勤務者を休養させるため、出動時間を約一時間延期。このため、敵機の第一波が飛行場上空に侵入した時、戦闘隊は出動間際だった。離陸したものが6機。内1機のみ後刻帰還、その他は未帰還。その後17時頃まで8回にわたり延べ500~600機が来襲。この日、ワクデやサルミ地区も攻撃。飛行場の在地機はほとんど全機が被弾、災上爆発。30数機あったホランジアの出動可能機数はほとんど皆無となった。通信も麻痺、師団の報告は後方に通じなかった。一方この日、メナドの第4航空軍司令部では、ホランジアからの報告はなく、新任の第68戦隊長貴島俊男少佐の着任等があり、夕刻には会食。
4月22日:午前5時30分頃、連合軍のホランジアに対する艦砲射撃が始まる。連合軍ホランジア上陸。稲田師団長、飛行部隊を地上戦闘部隊に改編。この日にも、稲田師団長は恩田第14飛行団長に対し、戦闘隊を率い、直路サルミに後退し、戦力の再建を図るよう命令した。恩田大佐は全戦闘隊を集め22時頃、飛行場を出発した。
海軍・船舶・兵站などの部隊は、22日夜(司令部など)、そして23日夜(警備隊など)転進開始。シクロップ山(注:現在の呼称はチクロップ山)系南麓を西進したが、タナメラ湾から南東進してくた米軍部隊(第24歩兵師団)と遭遇し多くは戦死。遠藤第9艦隊司令長官もこの行動間に山中で自決とされる。米第41歩兵師団が上陸したフンボルト湾南岸方面の部隊人員は、センタニ湖南方を西進したが多くは生死不明となった。
4月23日:稲田、飛行師団司令部のヤコンデへの移転を決定。夕刻、飛行場地区を出発。
4月24日:稲田、朝、ドヨ到着。夕刻、ドヨ発。
4月25日:稲田、朝ヤコンデ到着。
4月26日:稲田、夕刻ヤコンデ出発、ブルワイ(ヤコンデ南側、センタニ湖西岸湖畔)へ向かう。この日、第14飛行団長恩田謙蔵大佐率いる第1梯団(465名)がゲニム出発、サルミへ向かう。この中に飛行第68戦隊の瀧澤吉治曹長もいた。
4月27日:稲田、朝、ブルワイ西側に到達(ここで初めて第18軍第3野戦輸送司令官の北園豊蔵少将:前東ニューギニアのハンサ在。4月10日ホランジア着、と会う。そして北園少将は第18軍部隊が稲田少将の指揮下に入りたいと述べ、稲田はこれを承認)。この日までに、ブルワイ西方のマンダ地区に全部の集結掌握を終了。内訳は、第6飛行師団が5,000名、北園部隊2,000名(5,000名中の2,000名。つまり北園部隊は60%が激闘戦死または孤立、敵中を機動中)。
4月28日:稲田、北園両司令部は朝、ブルワイ発、マンダ到着。
4月29日~4月30日:第6飛行師団主力がゲニム集結。稲田は第6飛行師団を10コ梯団に区分して5月1日から1~2コ梯団ずつサルミ転進を命じる。最後の第10梯団の出発は5月7日と命じた。
5月3日:稲田は第5梯団とゲニム出発。この間、無線機故障につき、稲田は第4航空軍、第18軍、第2方面軍との連絡不能。こうして第18軍作戦地域を去ることに。
5月7日:メナドの第4航空軍にサルミの第36師団の情報として以下の内容が入る。
(注:第1梯団の)飛行第248戦隊が5月4日、ゴアイ(ゲニム西方約70km)を通過西進した。ゴアイには第36師団から工作班が分派されていた(注:内山守衛中尉指揮下の龍機関)。なぜ1コ戦隊だけがゴアイを通過したのかは不明であるが、第6飛行師団のサルミ後退を示唆するものと考えられた。この戦隊は第1梯団の後尾を機動中に主力と離れたものであった。ちなみに5月15日、第4航空軍はゴアイ工作班の情報を入手した。同地通過の第77戦隊報として、米軍の謀略部隊が日本軍内に潜入して攪乱工作をしている、というのであった。16~18日、第36師団の報告により、ホランジア部隊数千名が9梯団となり、ゲニムからサルミに行軍中で、その先頭は5月11日、アルモパを通過したことが、第4航空軍には明らかとなった。
アラレに上陸した連合軍(US Army 17 May 1944)
2009年7月、西部ニューギニア北岸サルミにある日本政府が昭和31年に建立した「戦没日本人の碑」の前で祈りを捧げる故瀧澤吉治准尉の姪の座間淳子さん。
2009年7月、「太平洋戦史館」が実施した慰霊巡拝の旅に参加した座間淳子さんは、念願のトム村を訪れた。伯父の故瀧澤吉治准尉は、この地で昭和19(1944)年5月30日、戦死したとされている。村人が急遽、花のリースを作って慰霊に参加してくれた。
【参考ブログ】
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_8.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_7.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_6.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_5.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_4.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_3.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_2.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
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“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_32.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_31.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_30.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_28.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_26.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_25.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_24.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_23.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_21.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 15 小野寺中尉の水筒
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_20.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14 終戦記念日
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_16.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13 トル川
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_13.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_12.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_10.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる10
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今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 9
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_3.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_2.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200907article_64.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』2 Pameran Prajurit
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200907article_63.html
「ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ」開催のお知らせ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200907article_62.html
太平洋戦史館
http://www14.plala.or.jp/senshikan/
東部インドネシアの旧日本軍航空基地関連記事一覧
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/theme/43f9afaef5.html
西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200903article_21.html
ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_5.html
パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200706article_4.html
パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200706article_3.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200905article_19.html
(この間に107~38のシリーズがあります)
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37) ハベマ湖(Danau Habema)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_9.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36) ロンベバイ湖(Danau Rombebai)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_8.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35) ウィッセル湖(Danau Wiessel/Paniai)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_7.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_6.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_4.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_3.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_2.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_34.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_33.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ(Nabire)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_32.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島(Pulau Numfor)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_31.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島(Pulau Numfor)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_30.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_29.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_28.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_26.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_25.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_24.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_22.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_15.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9) マノクワリ(Manokwari)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_10.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ(Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
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