『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
『薄れゆく悲劇 西部ニューギニア戦線(池見坦著)』によれば、ゴアイに駐屯していた池見氏を含む工作機関(鰐機関:内山守衛中尉指揮下)は4月27日に、ゲニム西方の村(村名不明)で、ゲニムから転進してくる「哀れな日本兵」の姿に接している。乞食同然の姿。銃を持つ者は皆無。手には杖、腰には飯盒と鞘なしの帯剣。この記憶に間違いがなければ、これら日本兵は、4月26日ゲニムを発った第1梯団とも想像される。あるいは、デムタかデパプレ方面から、もっと早くサルミに向けて出発した一団かもしれない。いずれにしても、ゲニムを発って1-2日の距離にある地点でさえ、すでに日本兵が疲弊しきっていたことがうかがわれる。
この鰐機関(注:正しくは龍機関。日高岩男少佐率いる工作隊の鰐機関はマンベラーモ川に派遣されていた)は、ゴアイからおよそ34-35日要してトル川に到達。トル川を筏で渡り左岸へ。連合軍と戦闘中の松山部隊がいる付近から約2km奥地へ後退し、さらにトル川左岸方向に戻った付近は『白骨街道』と化していた。「転進してきた将兵の死骸が百メートル歩く毎に十~十五人位、野晒しになり横たわっていた」。ここでは、大腿部の肉が切り裂かれた遺体もあったという。人肉食の跡だ。
故瀧澤吉治准尉。昭和15(1940)年12月、伍長進級時の撮影と思われる。
瀧澤吉治伍長(右)。昭和16(1941)年4月1日、第21回整備学生として入学した陸軍航空整備学校での撮影と思われる。後方には三式戦闘機の飛燕。
5月15日:(第6飛行師団長心得の)稲田少将一行は、サルミ東方約80kmのアルモパ東側付近(アルモパ南東密林内)でホランジアに向かう第36師団(雪部隊)歩兵第224連隊(松山宗右衛門大佐)の第1大隊第1中隊(上原靖彦中尉)に会う。この部隊は、4月22日連合軍の上陸を受けたホランジア部隊を救援する目的で計画された「ホランジア支隊(歩兵第224連隊)」の派遣を前に、補給拠点の確保と敵状捜索を目的に送り込まれた。第1中隊は、4月28日、約170名でマッフィンを大発2隻で出発、翌日の天長節の日、アルモパに到着した。
この第1中隊とは別に、同連隊の第5中隊(玉井貞蔵中尉)の先遣隊は、5月3日にサルミを大発2隻で出発し、ホランジア西方のタナメラ湾のさらに西方のデムタ(注:アルモパの東約15km。海軍の監視哨があり、海軍の糧食集積所もあった)に翌5月4日到着した。
これ以前、5月11日には、稲田司令官が先発させた操縦者集団(第1梯団→第14飛行団長恩田謙蔵大佐が率いる6個戦隊→第68戦隊(前年の12月1日、曹長に進級していた瀧澤吉治もこの中にいたものと推定),第78戦隊,第63戦隊,第248戦隊,第33戦隊,第77戦隊の人員約200名)がアルモパを通過、西進していた。
5月半ば:「上原中尉が小兵力を率いて偵察に出、翌日帰途についたときのことである。疲れきった日本兵が、三々五々密林から出てきて、よろめくようにして歩いている。聞いてみると、5月はじめにホーランジャを撤退した第6飛行師団の隊員であった。海岸の退路はすでに敵が上陸しているため、やむなく奥地に進路を求めたが、山岳にぶつかって、また海岸へ出てきたという。銃は半数の者しか持っていない。食糧はむろん皆無」(『西部ニューギニア戦 雪部隊 苦闘の軌跡』大國五郎著・角川書店)。
「彼等は三、四人が一組になり、全く放心状態のまま歩いている。軍衣もボロボロ。身につけているのは“三種の神器”の帯剣、飯盒、火種」(『歩兵第224連隊史』)。
ゲニム(ゲニェム)を発って半月後の5月中旬頃から、転進各梯団で急激に死亡者が増えたことが伺える。
「3月ころから敵の秘密偵察隊がひそかに侵入しているらしく、トル河以東の原住民に、変化のきざしがみられるようになった。敵の爆撃が開始され、ビラ(注:投降勧告ビラ)まきがはじまると、原住民の指導者たちは通敵行為にはしった。トム郡長の一味は、表面は我が軍に好意を示しながら、陰では敵の指令下に諜報活動を行っているらしかった。アルモパ郡長のグループは、敵のホーランジャ上陸後は露骨に反抗的態度を示し、転進兵の無力な者には、直接抵抗を試みるようになった」(『西部ニューギニア戦 雪部隊 苦闘の軌跡』大國五郎著・角川書店)。
5月16~17日:夜半から明け方にかけて、米軍はワクデ島、トム、アラレ、マフィン方面に猛烈な艦砲射撃。夜が明けると、近海一帯に艦船が多数。ワクデ島は三方向から十数隻の艦艇に包囲され、その集中砲火を受け、全く火の海と化し、同島飛行場の航空燃料の火焔は天に冲し、そ凄惨の状正視に堪えぬものがあった。トル河沖合西方においては敵巡洋艦、駆逐艦は主としてクマンバ島方面に望見された。5月16日、松山支隊はワクデ対岸の東方を東進中で、飢え疲れて三々五々西進してくる第6飛行師団将兵と行きつ会いつつ前進していた。トム東方のケデル(松山連隊の通信、衛生、補給、砲兵などの直轄諸隊)のさらに東のマシマシに連隊本部、その東に第2大隊(川島大隊)、その東に第3大隊(土井大隊)、そしてヤムナには松下第51野戦道路隊。
5月17日:連合軍のワクデ島、対岸のトル河口付近上陸。この頃から、デパプレ方面から海岸地区を後退して来た一部の労務者や兵員などが無秩序にサルミ方面で食糧を捜し求め、第36師団は当惑していた。第36師団の第6飛行師団に対する態度は厳しいものだった。第36師団のトル河口方面攻勢は月末ころ最高潮に達していた。このとき多数の敗退部隊が無統制でサルミ地区に入ることは、第36師団の戦闘を妨害する虞が大であった。稲田少将は涙を振るって隷下指揮部隊に対し、トル河右岸に一時停止を命じた。サルミを唯一の希望として、ひたすら飢餓を忍んできた将兵にとって、それはあまりにも大きな衝撃であった。損耗は一挙に激増した(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)。
この日、第6飛行師団は南方に迂回してトル河畔のブファレに向かうことを決した。この機動は、ほとんど道のない山野を突破した。方向を誤らぬため直進主義を採り、約1週間でトル河畔に出た。第4梯団長の北川季人中佐は17日、戦病死。ブファレには農園があるはずだった。稲田師団長は原田金兵衛参謀に師団主力を同地に誘導させ、自らは一部のものと共に別行動し、第36師団司令部に向かった。
5月18日:メナドの第4航空軍は、ホランジアにいた約400名の空中勤務者の内、約100名をサルミから潜水艦で輸送することを関係方面に要請。しかし、海軍は「あ」号作戦の準備最中であること、またサルミ付近は潜水艦の到達が困難であった。残された方法は、第2方面軍が所有する発動艇による沿岸機動とサルミからの空輸。前者は舟艇の実情、制海権状況から見て問題。後者は飛行場の補修、制空権の観点から危惧があった。(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)。
5月27日:寺本第4航空軍司令官は、「第6飛行師団長はホランジアからの転進部隊中、所要のものを戦場到着後、第36師団長の指揮下に入れ、飛行師団司令部、飛行団司令部、空中勤務者、主要整備員、その他所要の人員を速やかにハルマヘラ方面に集結すべし」と命令。
5月31日:朝、稲田師団長、第36師団通信所に到着。
5月末~6月上旬:第6飛行師団部隊がトル河畔で停止。
トル河畔での停止について(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)
5月31日午後~6月1日:稲田師団長は第36師団首脳と懇談し、以下の事に関して合意。
① 空中勤務者と第6飛行師団司令部の主体とを、マンベラーモ川河口のテパからマノクワリまで舟艇輸送する。
② 第5航空通信連隊と第22飛行場大隊等を第36師団の戦闘に直接参加させる。
③ その他の諸隊は作戦の妨害とならぬように、トル河畔にとどめ、戦況一段落とともに適宜サルミ方面で現地自活させる。
この決定は、第6飛行師団の作戦主任参謀の岡本貞雄少佐が6月2日以降、トル河畔に各部隊を探し求めて伝達。)
蛇行するグリメ(Grime)川下流部分。この川の上中流部に、“白骨街道”を生み出したホランジア→サルミの“死の転進作戦”のスタート地点であるゲニム(ゲニェム)が位置する。
アラレ(Arare)に上陸した連合軍(US Army 17 May 1944)
トラックを積んでトル(Tor)川右岸へ渡河する米軍LCM(小型揚陸艇)。1944年6月初旬頃か(ソース:U.S.Army in World War II 「The Approach to the Philippines」)
“命を取る川”とまで言われたトル川についに恒久橋が架かった(2009年7月撮影:木村宏)
1944年5月30~31日のトム村海岸付近の米軍戦闘配置図。歩兵第163連隊第2大隊、工兵大隊、そして高射砲部隊が展開していた。
連合軍は昭和19(1944)年5月17日、第36師団司令部があったサルミの東方、アラレ(Arare)並びにトゥム(トム)付近に上陸。翌18日、トム沖合いのワクデ(Wakde)島へ上陸した。
「太平洋戦史館」が主催した西部ニューギニア慰霊巡拝団一行は、2009年7月7日、サルミで、祖国に還れない未帰還兵の霊と共に七夕を祝った・前列中央、赤い浴衣姿の女性が、故瀧澤吉治准尉の姪にあたる座間淳子さん(2009年7月撮影:木村宏)。
【参考ブログ】
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_11.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_8.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_7.html
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
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“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
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“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200909article_1.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200908article_32.html
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
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“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 15 小野寺中尉の水筒
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14 終戦記念日
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13 トル川
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』2 Pameran Prajurit
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「ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ」開催のお知らせ
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太平洋戦史館
http://www14.plala.or.jp/senshikan/
東部インドネシアの旧日本軍航空基地関連記事一覧
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/theme/43f9afaef5.html
西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200903article_21.html
ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_5.html
パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200706article_4.html
パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200706article_3.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200905article_19.html
(この間に107~38のシリーズがあります)
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37) ハベマ湖(Danau Habema)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_9.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36) ロンベバイ湖(Danau Rombebai)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_8.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35) ウィッセル湖(Danau Wiessel/Paniai)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_7.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_6.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_4.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32) ワクデ島(Pulau Wakde)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_3.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200901article_2.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_34.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29) サルミ(Sarmi)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_33.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ(Nabire)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_32.html
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島(Pulau Numfor)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島(Pulau Numfor)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
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