再録『GBIニュース』1999.7.6 インドネシアの新聞王ダフラン・イスカン

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大川誠一の『GBIニュース』  1999年7月6 Berita GBI(6 Juli 1999)
インドネシアの“新聞王”ダフラン・イスカン氏。

スラバヤ発【インタビュー】 
インドネシアの新聞王ダフラン・イスカン『Jawa Pos Group』CEO 
WWCR dhn Fahlan Iskan, “Bos Grup Jwa Pos”

計61紙を発行、将来はテレビへも進出。
『地方自治の向上そして地方紙の発展。やがて連邦国家へ


インドネシア最大の新聞は?おそらく誰もが日刊紙『コンパス(KOMPAS)』と答えるであろう。間違ってはいない。発行部数は公称でおよそ45-48万部とされている。『コンパス』を発行するグラメディア・グループは、同紙の他に全国で計5紙の地方紙も発行している。従って、グループとしての合算発行部数は6紙で約60万部と言われている。

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スラバヤで三番目に高い21階建てジャワ・ポス本社ビル

しかし、実はもっと巨大な新聞グループが存在するのだ。それが、東ジャワの州都スラバヤに本社を置く『Jawa Pos』グループ。今日現在、全土で計61紙を発行。中核は言うまでもなく、現在の発行部数がおよそ36万部の日刊紙『ジャワ・ポス(Jawa Pos)』である。過去の最高記録としては1991年に起きた湾岸戦争のころの50万部。同グループのCEOであるダフラン・イスカン(Dahlan Iskan)氏が、手書きで書き出してくれた(経費節約のために、会社案内やパンフなどは一切作成しないのだ!)グループ紙は下記の通りだ。

『日刊紙』
「東ジャワ州」
1:Jawa Pos、360,000部。(創刊1949年、但し『Tempo』誌による買収は1982年)
2:Suara Indonesia、40,000部(創刊1986年)
3:Memorandum、35,000部(創刊1989年)
4:Malang Pos、15,000部(創刊1999年)
5:Indonesian Daily News、5,000部(創刊1998年)
6:Madiun Pos、15,000部(近く発行開始)
7:Kediri Raya Pos、14,000部(近く発行開始)
8:Jember Pos、12,000部(近く発行開始)
9:Banyuwangi Pos、8,000部(近く発行開始)
10:Madura Pos、7,000部(近く発行開始)
11:Bojonegoro Pos、10,000部(近く発行開始)
「中ジャワ州」
12:Jateng Pos、50,000部(創刊1999年)
13:Satria Pos、10,000部(創刊1998年)
「首都ジャカルタ」
14:Rakyat Merdeka、150,000部(1994年旧「Merdeka」紙を買収)
15:Pos Metro、25,000部(創刊1999年)
16:Glodok Standard、10,000部(創刊1999年)
17:Radar Bogor、30,000部(創刊1998年)
18:Radar Tangerang、10,000部(創刊1999年)
19:Duta Masyarakat、40,000部(創刊1998年=PKB(国民覚醒党)機関紙)

「カリマンタン島」
20:Kaltim Post、35,000部(創刊1987年)
21:Samarinda Pos、5,000部(創刊1999年)
22:Kalteng Pos、5,000部(創刊1996年)
23:Pontianak Post、25,000部(創刊1988年)
24:Equator、7,000部(創刊1999年)

「スラウエシ島」
25:Manado Post、25,000部(創刊1991年)
26:Mercusuar、6,000部(創刊1993年:Palu)
27:Fajar、35,000部(創刊1989年:Ujung Pandang)
28:Kendari Pos、5,000部(創刊1996年)
29:Bina Baru、15,000部(創刊1997年9
「マルク・イリアンジャヤ・NTB」
30:Suara Maluku、11,000部(創刊1993年)
31:Cenderawasih Pos、8,000部(創刊1992年)
32:Lombok Pos、7,000部(創刊1990年)
「スマトラ島」
33:Radar Medan、6,000部(創刊1999年)
34:Padang Ekspress、11,000部(創刊1998年)
35:Riau Pos、40,000部(創刊1991年)
36:Utusan、7,000部(創刊1996年:Pekanbaru)
37:Sijori Pos、20,000部(創刊1998年:Batam)
38:Semarak、10,000部(創刊1992年:Bengkulu)
39:Sumatera Ekspress、45,000部(創刊1997年:Palembang)
40:Palembang Pos、7,000部(創刊1999年)
41:Independent、10,000部(創刊1993年:Jambi)
42:Jambi Ekspress、7,000部(創刊1999年)
43:Lampung Ekspress、7,000部(創刊1996年)

『娯楽タブロイド紙』
44:Nyata、130,000部(創刊1992年)
45:BG、25,000部(創刊1999年)
46:SinemaTV、25,000部(創刊1999年)

『政治タブロイド週刊紙』
47:Oposisi、350,000部(創刊1998年)
48:Gugat、200,000部(創刊1998年)
49:Posmo、150,0000部(創刊1998年)
50:Abadi、60,000部(創刊1998年:PBB=月星党機関紙)
51:Demokrat、115,000部(創刊1998年:PDIP=闘争民主党機関紙)
52:Amanat、90,000部(創刊1998年:PAN=国民信託党機関紙)
53:Duta Masyarakat、40,000部(創刊1998年:PKB=国民覚醒党機関紙)54:BK、50,000

部(創刊1988年)
55:Intim、15、000部(創刊1998年)

『専門タブロイド紙』
55:Komputek、12,000部(創刊1990年)
56:Agrobis、50,000部(創刊1990年)
57:Rumor、25,000部(創刊1999年)

『雑誌』
58:Liberty、90,000部(創刊1989年)
59:Mentari、30,000部(創刊1990年)
60:Eksekutip、15,000部(創刊1999年)
61:Intervie、15,000部(創刊1999年)

以上、新聞の合計は57紙でトータルした発行部数は2,502,000部となる。つまり合算数値では、『KOMPAS』グループを遥かに凌ぐことになる。4倍以上だ。インドネシア最大のマスコミと断定して構わない。

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名刺大、短冊状の『ジャワポス・グループ』リスト。裏面にも新聞社名が

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本社ビル地階にある印刷工場とダフラン氏

さる7月1日、創立50周年を迎えた『Jawa Pos』。ダフラン・イスカン氏は一面のコラムを通じて、同紙が50周年記念式典を行わないことを次のように説明した。

「読者のみなさんは、ジャワポス・グループが次から次へと新たな新聞を発行していることに驚いているでしょう。しかしこれは余剰人員を効率的に配置するための一つの方法なのです。この経済危機を乗り切るために、本社ビルの内装工事も中断したままです。またテレビ局のオープンも延期しました。全取締役に対して高級乗用車に乗ることを禁じました。かつて男子従業員はネクタイの着用を推奨されましたが、現在ではネクタイ禁止令が出ています。しかし、そういった努力のおかげで、私たちジャワポス・グループはSurviveすることができました。20ページに削減されていた紙面も24面へと回復。カットしていた給与もすでに何度かにわたって上げました。また経済危機の最中に美容院へ行くことを禁じられていた女子従業員も、いまでは再びおしゃれになってきました。まだ危機を脱したとは言えません。これからも警戒を怠ることはありません」

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新聞紙も自社所有工場で製造している

以下、"インドネシアのマスコミ王"との会見抜粋。

確か、1985年のことでしたか、ダフランさんと社長のエリック・サモラさんが日本へやってきて、私が名古屋の中日新聞社へと案内しましたね。あのとき、ご両人とも大層感動していましたが、やはりあの時に得たものがその後の「Jawa Pos」の発展に役だったと?

中日新聞訪問がなければ、今日のジャワポス・グループはないと言っても過言ではありません。あの訪問を通じて、地方紙、ブロック紙が十分やっていけるという確信を得たのです。中日新聞は首都東京で東京新聞を発行していますね、あのパターンをヒントに、我々はジャカルタで「Merdeka」紙を買収したのです。また、中日新聞は野球チームも抱えていますね。それをヒントに、我々は地元スラバヤのサーッカー・チ―ムであるPersebayaのスポンサーとなったわけです。中日新聞から得たインスピレ―ションは、その後のジャワポスの運命を決めたのです。あのとき、中日との面会をアレンジしてくれ、通訳してくれたあなたに今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

今、インドネシアはまさに"言論の黄金時代"を迎えています。この態勢は21世紀になっても、政権が代わっても続くと見ていいのでしょうか?

民主化はますます進み、グローバル化にも拍車がかかります。後戻りはできないのです。自由のないプレスは国を破壊します。また、地方自治の向上に伴う地方財政の強化、さらには地方紙の発展による地方社会の知的向上。我々が発行している地方紙は現在まだまだ小規模ですが、必ずやってくる"地方の時代"を迎えるとき、それは驚異的な発展を遂げることでしょう。ですから、今、こうして地方紙をどんどん興しているのです。これまで首都で発行されている新聞は、少しも地方のことなど考えてこなかったのです。21世紀は、地方紙こそが中央紙よりも大きくならないといけません。スラバヤで発行されている「Jawa Pos」を衛星を使って地方に電送し、そこで「Jawa Pos」を発行したら、という提案も何度か受けていますが、私にはその気がありません。なぜなら、それでは地方紙にならないからです。地方の事を真剣に考える新聞こそ地方紙なのです。将来は、インドネシアの新聞界はアメリカのような姿になっているでしょう。

4政党の機関紙を同時に発行するという、議論を呼ぶアクションを決定した背景は?

正直言って、かつて私はゴルカルを支持し、MPR(国民協議会)議員ともなりました。ゴルカル系の新聞を発行していたこともありました。そういった反省から、さらにビジネス面でのメリットも考慮に入れて、野党勢力の声を伝える新聞の発行を提案したわけです。そしたら4政党がのってきたのです。しかし、それぞれの政党機関紙へ編集長として出向させている人物は、あくまでもジャワポス・グループの社員のステ―タスを維持し、編集長以外の記者らはそれぞれの政党が集めたのです。つまり、ジャワポス・グループは新聞製作のノウハウのみを提供しているのです。

【プロフィール】

Dahlan Iskan。奇しくもインドネシアの独立記念日6周年目にあたる1951年8月17日、東ジャワ州、マゲタン(Magetan)県ベンド(Bendo)郡テガラルム(Tegalarum)村で、四人姉弟の第三子、長男として生まれる。『父親(モハマド・イスカン=Mohamad Iskan)は田んぼを持たない小作人で、時々建設作業員としても働いていました。とても貧しい家でした。米飯は一日に一回だけ、それも年に三ヶ月ぐらいしかなかった。中学校と高校は片道6mを徒歩で往復。それも裸足だった。生まれて初めて靴を履いたのは高校3生になってからだった。それも中古の靴で、朝礼のある月曜日だけ履いていった。短パンと上着はそれぞれ一枚だけ。学校からの帰り道、近所の家が所有している山羊を川のそばへと連れていって、草を食べさせる仕事で、少しのお小遣いをもらった。山羊を土手で遊ばせておいて、僕はいつも川の中へ入っていった。目的は三つあった。まず遊ぶこと、次いで魚を捕ること、これは夕御飯のおかずだ。そして短パンとシャツの洗濯だった。雨の日はイロリの上で乾かした。そう言えば、家には傘もなかった』とダフラン氏。

高校を卒業後、カリマンタン島で小学校の先生をしていた長姉のホシヤトゥン(Chosiyatun)を頼り、サマリンダへ渡る。次姉のソフワティ(Sofwati)の勧めだった。『ソフワティはとっても頭の良い姉だった。マランのIKIP(師範大学)を出て、東ジャワ、それからスマトラのジャンビへ移り小学校の先生をしていた。大学時代には学生新聞の記者もしていた。だけども30歳の時、夫と一人の息子を残して他界した』とダフラン氏。

サマリンダでは午前中、IAIN(Institut Agama Islam Negeri=国立イスラム教大学)教育学部で、そして夕方はUntag(8月17日大学)サマリンダ校法学部へ入学。18歳だった。共に授業料は無料だった。しかし、授業内容に失望し、両校共に2年でドロップアウト。HMI(イスラム学生協会)やIPMI(インドネシア学生プレス連合)などの活動に没頭。学生新聞(週刊紙)の『Buletin Suara Umat』や、ほぼ同じ時期に地元紙の『Mimbar Masyarakat』でも記者のまねごとを始めた。

1974年、首都ジャカルタからLP3ESが、記者養成プログラムを携えてサマリンダへとやってきた。優秀な地方記者をジャカルタで教育するプログラムだった。『25人の中から僕だけが選ばれて、全国から選抜された9人と共に三ヶ月を首都で過ごした。日中は指定されたメディアで実際に働き、夜はテオリーを学んだ。僕が配属されたのは、最有力誌のTEMPOだった』と。

隠れていた才能がテンポ誌副編集長の目によって発見された。ダフラン氏は、三ヶ月の研修を終えると、テンポ誌から『サマリンダ駐在通信員をしてくれ』と依頼される。サマリンダに戻り、『Mimbar Masyarakat』(1974-1977)そして『TEMPO』誌(1975-1977)記者の二足の草鞋。

1977年、運命のスラバヤ行き。テンポ誌から、生まれ故郷の東ジャワへ戻り、州都スラバヤの通信員になることを要請される。翌1978年から1982年まで『TEMPO』誌スラバヤ支局長。

『1982年4月1日、テンポ誌がスラバヤで発行されていた落ち目の日刊紙「Jawa Pos」を買収し、僕が編集デスクとして任命された。当時、「Jawa Pos」の発行部数はわずか6,800部だった。歴史のある新聞だったが、それ以前の発行部数も15,000部が最高値だった。一方有力紙は「Surabaya Post」で11万部』とダフラン氏。

1984年、「Jawa Pos」紙編集長就任。発行部数は4万部に増えていた。以降、ダフラン氏の手腕により、「Jawa Pos」紙の驚異的発展が始まった。1991年に湾岸戦争が勃発すると、発行部数は歴代最高の50万部を記録。当初比70倍以上の伸びだ。

1988-1993:MPR(国民協議会)議員。1984-1994:スラバヤ・ライオンズ・クラブ会長。1988年から今日までスラバヤに本拠地を置くサッカーチーム「Persebaya」の理事長。1989-1997:PWI(インドネシア記者協会)東ジャワ州支部長並びに東ジャワ州商工会議所役員。1996年まで与党(当時)ゴルカル(Golkar)東ジャワ州執行部役員。現在計61紙からなる「ジャワポス・グループ」のCEO(最高経営責任者)。

3歳年下でカリマンタン島のサマリンダ出身の妻シティ・ナフシア(Siti Nafsiah)との間に、息子(Azrul Ananda、21歳。米国で高校を卒業、現在サクラメント州立大学経済学部[マーケティング専攻]在学中)と娘(Isna Fitriana、19歳。高校は米国、現在私立スラバヤ大学経済学部[専攻は会計学]1年在学中)。『将来何になろうと子供の勝手だ。でも、俺よりも頭が良くなれって子供たちには言っている』と。

身長170cm、体重75kg、血液型B。イスラム教徒。大好きな言葉は『Harus(~しなければならない)』。趣味は読書、但し、マーケティング、ビジネス、経済などのテキストものは一切読まない。『得るものが何もないからね。時間がもったいない。たいていは伝記物かな。日本の吉田茂の伝記は感動したものの一つだ』。

21階建ての近代的なジャワポス本社ビル。4階にある編集部フロアの奥に、8 X 10メートル大のCEO室がある。しかし、机はあるものの椅子がない。電話もない。デスクトップもない。トイレももちろんない。インドネシアン・ドリームもしくはインドネシアン・サクセス・ストーリーの見本のような、巨大マスコミ企業のトップであるにも関わらず、ダフラン氏のライフスタイルは極めてシンプルだ。よれよれのシャツ、プレス跡のないズボン。胸ポケットには一本の安物水性ペン。

『椅子があれば、ど―んと座ってしまい、無駄なことを考える。だから椅子は必要ない。立ったままで書類に目を通し、サインなんてものの数分で終わってしまう。電話があれば余計な会話をするだろうし、部屋に閉じこもってしまう。僕は必要があれば、編集部まで出かけて、そこにある電話を使う。従って僕に電話をかけてきても、まず繋がらない。つまり時間を自分で自由に使うことができる。コンピューターが必要になったら、編集部にあるものを使えば済む。従業員に隠すことなど何一つないから、たとえ電話の会話を聞かれても何ら気にしない。それから幹部は携帯電話を持ってはいけないことに決めた。あんなものがあるから秘密性が生まれたり、無駄な電話代がかかる。贅沢品と言えば、お客さんを乗せるためのメルセデスベンツ(マスターピース、3000CC)ぐらいかな』

【備考】

ダフラン氏は、インドネシア国営電力会社(PLN)総裁職を経て、2012年2月現在、国営企業担当国務大臣職にある。

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【参考ブログ】


再録『GBIニュース』1999.7.5 スラバヤ発【血判】 メガワティを大統領に!
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再録『GBIニュース』1999.7.4 画家ハルディ氏が初公開するウィナのヌード画
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再録『GBIニュース』1999.7.3 スラバヤ発【紙幣】 新50,000ルピアが発行される?
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再録『GBIニュース』1999.6.29【セミポルノ新聞】タブーに“挑戦”するタブロイド紙『POP』
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再録『GBIニュース』1999.6.27 【刑務所】 日曜日のチピナン刑務所
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再録『GBIニュース』1999.6.26  【インタビュー】 ムニールKONTRAS代表
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再録『GBIニュース』1999.6.25 【紙幣】5万ルピア紙幣に秘められた重大な事実とは?
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再録『GBIニュース』1999.6.24 【インタビュー】 アリ・アラタス外相
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再録『GBIニュース』1999.6.20 【会見】スリ・スルタン・ハメンクブォノ10世
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再録『GBIニュース』1999.6.17#2 【インタビュー】 シャルワン・ハミッド内務大臣
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再録『GBIニュース』1999.6.12 【映画】 新作『SRI』 月中旬ジャカルタと東京で初上映
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再録『GBIニュース』1999.6.9 ハッジ・モハマド・スハルト前大統領
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_13.html
再録『GBIニュース』1999.6.8 女優クリスティン・ハキムさんと見た総選挙
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_12.html
再録『GBIニュース』1999.6.7 『漫画で学ぶ改革派の闘士アミン・ライス』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_11.html
再録『GBIニュース』1999.6.5 インタビュー:女優のクリスティン・ハキムさん
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_10.html
再録『GBIニュース』1999.6.2 インタビューシリーズ【イリアンジャヤ】(5)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_5.html
再録『GBIニュース』1999.5.30 インタビューシリーズ【イリアンジャヤ】(4)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_3.html
再録『GBIニュース』1999.5.31#2 インタビューシリーズ【イリアンジャヤ】(3)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_2.html
再録『GBIニュース』1999.5.30 インタビューシリーズ【イリアンジャヤ】(3)~(1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201112article_2.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_30.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_29.html
再録『GBIニュース』1999.5.21 インドネシア手描き絵葉書展
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_28.html
再録『GBIニュース』1999.5.18 【ヌサンタラ横断・メラウケからサバンまで】(7) ~(1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_27.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_26.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_25.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_23.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_22.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_21.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_20.html
再録『GBIニュース』1999.5.17 【人】 スマディ駐日インドネシア大使
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_24.html
再録『GBIニュース』1999.3.15JIF(日本インドネシア科学技術フォーラム)が運営委員会開催
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_19.html
再録『GBIニュース』1999.3.11【インドネシアのジョーク&ユーモア特集7】 『頭文字略語』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_18.html
再録『GBIニュース』1999.3.10【インドネシアのジョーク&ユーモア特集6】 『東ティモール』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_17.html
再録『GBIニュース』1999.3.9 【インドネシアのジョーク&ユーモア特集5】『お札の価値』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_16.html
再録『GBIニュース』1999.3.8【インドネシアのジョーク&ユーモア特集4】『脳の値段』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_15.html
再録『GBIニュース』1999.3.7【インドネシア・ジョークユーモア特集3】インテル・インサイド
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_14.html
再録『GBIニュース』1999.3.5 【ビジネス】イリアンジャヤから熱帯魚バラムンディを輸出希望
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_13.html
再録『GBIニュース』1999.3.4【インドネシア・ジョークユーモア特集2】 それだけは求めるな!
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再録『GBIニュース』1999.3.3【インドネシア・ジョーク&ユーモア特集1】 『地獄への電話』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_11.html
再録『GBIニュース』1999.2.25 【人】 アンティック・ストーンとジュナイディ・ハンドコ氏
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再録『GBIニュース』1999.2.24 イリアンジャヤへ帰った研修生ベルナドゥス・ティパガウさん
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_9.html
再録『GBIニュース』1999.2.23 【インタビュー】 作家セノ・グミラ・アジダルマ氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_8.html
再録『GBIニュース』1999.2.14 IWAPI(イ女性経営者協会)が3月ジャカルタで国際セミナー
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_7.html
再録『GBIニュース』1999.1.19#2ラトゥナ・サルンパエット女史が演じる『マルシナは訴える』
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_6.html
再録『GBIニュース』1999.1.19 【書籍】 タブーが消えたインドネシア出版事情(2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_4.html
再録『GBIニュース』1999.1.18【会見】国家人権委員会)事務局長クレメンティノ・アマラ―ル氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_3.html
再録『GBIニュース』1999.1.15  【書籍】 タブーが消えたインドネシア出版事情
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_2.html
再録『GBIニュース』1999.1.14 【会見】UILPEM(社会経済研究所)スリ・ムルヤニ所長
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201111article_1.html
再録『GBIニュース』1999.1.13 CAPS(農業政策研究センター)所長のH.S.ディロン氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_31.html
再録『GBIニュース』1998.12.22 【会見】アンディ・アリフィアン・マラランゲン行政法学者
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_30.html
再録『GBIニュース』1998.12.15  【会見】 メガワティ・スカルノプトゥリ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_29.html
再録『GBIニュース』1998.12.14#2 【会見】PAN(国民信託党)総裁アミン・ライス氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_28.html
再録『GBIニュース』1998.12.14 【インタビュー】 詩人レンドラ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_27.html
再録『GBIニュース』1998.12.13 P3M(プサントレンと社会の発展協会)会長マスダール氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_26.html
再録『GBIニュース』1998.12.12 【インタビュー】 不動産評論家パナンギアン氏
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_25.html
再録『GBIニュース』1998.12.11#2 会見:インドネシア国軍総参謀長ファフルール・ラジ中将
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_24.html
再録『GBIニュース』1998.12.11GBIとIWAPI(インドネシア女性経営者協会)が協力
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_21.html
再録『GBIニュース』1998.12.10#2 HMI(イスラム学生協会)会長アナス・ウルバニングル
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201110article_19.html

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