再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja アメリカ兵遺骨返還式

画像

アメリカ兵遺骨返還式:第二次世界大戦時の米兵の遺骨がインドネシアより返還される(1999/1/25)
戦後半世紀以上が経過しても、ここイリアンジャヤ州(旧オランダ領西部ニューギニア。日本も3年以上にわたって軍事占領したことがある)のいたるところで太平洋戦争の痕跡に出会うことができる。ビアク島やサルミ、そしてマノクワリなどには日本政府や遺族会が建立した慰霊碑がある。州都のすぐ近く、アベプラにも、慰霊碑が立っている。近所のおばあさんが、毎年日本で夏が近づく頃、その慰霊碑の周辺をきれいに掃除していると聞く。なんでも、毎年8月の日本の終戦記念日前後には、多くの慰霊巡拝のツアーがやってくるから、掃除しておいてあげるそうだ。
マッカーサー記念碑前で行われた遺骨返還式

昨98年11月7日付けの『読売新聞』で、ジャカルタ特派員の菱沼さんが「ニューギニア西部:今も眠る旧日本兵の遺骨」というタイトルで、州都ジャヤプラ西部に位置するゲニェムという名の、太平洋戦争当時の激戦地からリポートを書いていたが、その取材に私も同行する機会を持った。

ゲニェム村に暮らすマチヌス・ブアイムさんは『この周辺だけでもおよそ2000体の日本兵の遺骨が眠っている』と証言していた。イリアンジャヤだけでも大戦中、およそ5万3千人の日本軍将兵が亡くなっていると言われている。戦後、日本政府は1956年にこの地に遺骨収集団を派遣した。そして1975年を最後に遺骨収集作業は今日まで行われていない。

マチヌスさんの自宅の庭には約20体分の日本兵の遺骨が保管されている。周辺で集めた、赤さびた鉄かぶとや飯盒、機銃なども、それらの遺骨と共に大事に祀られている。『この辺りでは、どこを掘っても、日本兵の遺骨がザクザクと出てきます。軒下、道路建設予定地、そして畑の中、いたる所で発見されています。見つかる度に、集めてきてはこうして僕の家の裏庭に保管していますが、このままでいいのでしょうか?僕らとしては、徹底的に収集作業を実行して、一カ所にまとめて、そこに慰霊碑なりを建てるべきだと思っているのですが。でも、日本ではこういった状況を知る人が少ないのでしょうね。半世紀も祖国へ帰れないこうした遺骨を見ていると、本当に可哀想に思ってしまいます』とマチヌスさん。

祖国へ帰れないばかりか、異国の地で誰の目にも触れずに、灼熱の太陽に晒され、時には大粒のスコールに打たれる、白い遺骨。無念の思いで亡くなった方々も多いことだろう。

先日、岩渕さんという、この地で父親を戦死で失った遺族とお目にかかった。岩渕さんは、これまで何度となくイリアンジャヤを訪れては、各地で慰霊巡拝を行っているそうだ。そして『ジャヤプラから北部海岸線にあるサルミ村までの、いわゆる遺骨未収集地域の調査が急務だ』と述べていた。

その昔、銃を手に多くの日本兵が上陸したここ西部ニューギニアに、私は『留学生』としてやってきた。銃に代わってパソコンや勉強道具を持ってやってきた。いまだに何千、何万もの日本兵の眠るイリアンジャヤ。そこでは日本製の醤油や清涼飲料水がスーパーマーケットで難なく手に入る。50年以上も前、日本兵たちは、ここでどんな食事をして、どんな気持ちで遠い祖国のことを思っていたのだろうか。

今やパソコンでインターネットを楽しめ、携帯電話からは、瞬時に世界中に電話をかけることができる。マチヌスさんが集めた遺骨を見つめながら、叶わぬこととは知りながら、私は『できるものならばこの携帯電話でどうぞ故郷の親族・友人たちと話をして下さい!』と思った。あんなにも発展し、今や経済大国と言われるニッポン。でも祖国へ帰ることができない日本兵の遺骨はいまだ地中に埋もれている。

ところが、これとは対称的に、この地で亡くなったアメリカ兵士の遺骨は、発見される度に、きちんと祖国へと帰還している。つい先日にも、新たに発見された米兵の遺骨が、厳粛な式典の下、インドネシア側からアメリカ軍へと返還された。さる1月22日(金)。ジャヤプラ西方のセンタニにあるマッカーサー記念碑において 、1945年にティミカ(イリアンジャヤ中西南部の町)で戦死したアメリカ兵の遺骨返還式が行われた。

米軍のB25爆撃戦闘機から発見された八体の遺骨が、インドネシア第八陸軍軍管区(トリコラ)師団長のアミール・スンビリン少将より、アメリカ空軍第十三司令官、Thomas C Waskow 少将へと引き渡された。地元紙の記者によれば、それらの遺骨・遺品は、前日テイミカよりセンタニ空港に空輸されてきた。二つのトランクに納められ、センタニ地区司令官が受け取ったそうだ。
画像

センタニ湖を見下ろす丘の上にある『マッカーサー記念碑』
画像


式典に参加した知り合いの軍高官が説明してくれたところによれば、話は次の通りだ。第二次世界大戦が終わって一ヶ月以上たった1945年9月24日、八人の搭乗員を乗せた米軍のB25戦闘爆撃機が、西部ニューギニア(現在のイリアンジャヤ)を通過する際に事故にあった。その不運なB25は、 1万3千フィートの高さの絶壁に追突し、その機体は1万2千800フィートの高さの、狭い崖まで落ちて止まった。

それからおよそ30年後。1973年に、テイミカ近辺の銅鉱山を開発している米イ合弁会社であるフリーポート社が、テンバガプラ(銅山)近辺で飛行巡回を開始した。そして、1995年12月24日、フリーポート社の調査機により、崖に引っかかっている飛行機の残骸を発見した。フリーポート社と契約しているNational Utility Helicopters 社所属のヘリコプター、Bell 205 A-1を操縦していたKapten Ricard Alzettaが1万3千フィートの高さを飛んでいるとき、下の方にB25戦闘爆撃機の機体の一部を発見。

1995年12月末、Kapten Alzetteは、ジャカルタとシンガポールのアメリカ大使館へそのことを報告した。1996年1月31日、Alzettaと二人の搭乗員、Mika Bursonと Joocep Dapas は、再びそのB25機とその周辺を調査し、写真を撮った。さらに2月初旬、地質学者の Peter Thomptonと共にその場所へいき、ビデオを撮った。Thomptonはさらに多くの機体の残りを発見し、そのビデオテープはジャカルタのアメリカ大使館員へと送られた。

1996年始めから1998年末まで、アメリカ軍は調査を行ってきた。いくつか の遺留品などが証拠となり、絶壁に追突したその飛行機は、1945年9月8日にメ ラウケ(イリアンジャヤ東南端の市)からビアク島へ向かおうとして消息を絶ったB25のSN43-4915機と断定された。その飛行機は八人の乗員を乗せていた。

アメリカ政府は1996年から1998年にかけて、遺骨の引き上げをフリーポート社の手を借りてインドネシア政府と交渉した。しかし1997年末から1998年始めにかけてイリアンジャヤを長期の干ばつが襲い、その結果発生した森林火災による煙霧が、その遺骨引き上げ作業を阻んだ。

98年12月4日ハワイのアメリカ軍識別調査隊と空軍が例のB25機の場所を訪れた。そして99年1月12日、遺骨と遺品などの引き上げが開始され、1月21日にジャヤプラへと運ばれた。戦後の出来事とはいえ、その存在が確認されるや、速やかに遺骨・遺品収集に乗り出すアメリカ。

一方、その存在は誰もが知っている事実なのに、遅々として進まない旧日本兵たちの膨大な数の遺骨そして遺品。国家・国民のためと信じて遠く、太平洋を下り、ニューギニアまでやってきた日本軍。しかし、今その国家と国民は何事もなかったかのように、ここイリアンジャヤに眠る日本兵のことなど忘れ去っている。

マチヌスさんが尋ねた。『日本では人が死ぬと、そのまま草むらや空き地に放置しておくのですか?』。私は答えに窮した。


画像


関連記事

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja 隣のイリアン・ボーイ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_16.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irjaイリアンジャヤ98年主要ニュース
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_15.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja 祈祷を受けに帰郷(パート2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_14.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja 祈祷を受けに帰郷(パート1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_13.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja コテカ:中央高地のペニスケース
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_12.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja樹皮絵画アーティスト:イスマイル
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_11.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja  センタニ湖アセイ島の樹皮絵画
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_10.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja イリアンジャヤの名物料理
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_9.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja イリアンジャヤの果物
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_8.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja 砂金フィーバー
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_7.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja日本の援助がジャヤプラに届いた!
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_6.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja ジャヤプラの通学事情
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_4.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja 家族紹介(98年11月5日)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_2.html

再録『ライラのイリアンジャヤだより』 Surat dari Irja ピナンとシリ
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201307article_3.html

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック