
西部ニューギニアのパプア州(Provinsi Papua)のサルミ県(Kabupaten Sarmi)。SARMIとは、同地に暮らす主要5部族すなわち、Sobey、 Armati、 Rumbuai、Manirem、Isirawaの頭文字から造語された。その昔、オランダ人人類学者が名づけたという。県面積は、17,740Km2と、日本の都道府県面積で第二位の岩手県を上回る。しかし、人口はわずか32,200人。果てしなく続く密林と、太平洋に注ぐ無数の大小河川。
Sarmi to Jayapura, PAPUA(34) パプア州サルミからジャヤプラへ
https://youtu.be/92O_3VYrKOk
Sarmi to Jayapura, PAPUA(33) パプア州サルミからジャヤプラへ
https://youtu.be/jcrHLB2-AJ8
Sarmi to Jayapura, PAPUA(32) パプア州サルミからジャヤプラへ
https://youtu.be/tPEEqR1Pl0Y
Sarmi to Jayapura, PAPUA(31) パプア州サルミからジャヤプラへ
https://youtu.be/UCBkU9G-2es
この地は、日本の東北地方と深い関係を有している。先の大戦で、現在県都となっているサルミには、第36師団(田上八郎中将)隷下の、秋田の歩兵第223連隊、そして山形編成の歩兵第224連隊の12,762人が送り込まれた。この内、終戦時点で生存できたものはわずか3,718人。生存率は29.1%だった(『西部ニューギニア 雪部隊 苦闘の軌跡』(大國五郎著。平成4年8月30日角川書店発行)による)。これに台湾人兵補やインドネシア人兵補を加えると、16,219人が上陸し、生き残った将兵は3,376人、つまり生存率は27.6%となる。言い換えれば、9,000人を超える東北健児が戦死、戦病死した地である。
同書によれば、台湾人兵補1,750人中577人のみが生き残り(生存率32.9%)、インドネシア人兵補の場合は、約400名が“逃亡”し生死不明とされるが、1,707人中、生存したものは181名(生存率10.6%)という。『師団の各隊から、旧戦場へ遺骨収集班が派遣された。しかし、戦闘がはじまってから、すでに一年半が経過している。熱帯の植物は生育がはやい。ジャングルに分け入って見ても、新たに叢林(そうりん)がはびこって、旧陣地は痕跡(こんせき)もとどめていなかった。中隊長、小隊長、分隊長とつぎつぎに陣没し、死者の身近な戦友もまた不帰の客となって、多くの遺骨を集めることは不可能であった』と大國さんは回顧する。
『遺骨収集が一段落すると、聯隊はささやかな慰霊祭を催した。祭壇に遺骨を安置し、椰子の実、タピオカ、サゴデンプンのだんご、カンコンなど供えると、参会者一同、涙のうちに英霊の冥福を祈った。だが、遺骨・位牌を焼いても、二七〇〇余柱も遺骨とするには、あまりにも少ない。各隊は珊瑚礁を砕き、それに入江山の砂と火葬の灰とを合わせて「遺骨」とし、故国へ持ち帰る準備をした』と。
二七〇〇という数字は、歩兵第224連隊(松山宗右衛門大佐)の通信隊に所属した大國元軍曹の記述によれば、サルミへ上陸した同連隊3,347名の内の戦没者2,722柱を指す。同隊の生存者数は625名。つまり生存率は18.7%だった。第36師団(通称、雪部隊)全体で見ると、前述したように上陸人員は計12,762人で、終戦時の生存者数は計3,718人(生存率29.1%)。つまり9,044名が戦没したことになる。これとは別に、終戦後、翌年の6月に引揚船がやって来るまでの間に亡くなった将兵も数多い。
一方、このサルミから道路上の距離でおよそ320Km、直線距離で約233Km東に位置する、パプア州都のジャヤプラ(旧ホランジア)。ジャヤプラの西郊には大きなセンタニ湖があり、戦時中、日本軍はここに計三つの飛行場を建造した。ジャヤプラの東、タミ川河口付近に造った飛行場と合わせると四飛行場となる。まさに、大本営が描いた“絶対国防圏の設定に基づく航空決戦”の最前線基地として、西部ニューギニアが位置づけられていた。
昭和19(1944)年4月22日の連合軍上陸に伴い、ホランジア(現ジャヤプラ)、そしてセンタニ湖周辺部にいた日本軍およそ1万5千人は、後退を余儀なくされ、多くが、ゲニェム村に終結後、第36師団がいるサルミを目指し、いわゆる“地獄の転進作戦”が実行された。ホランジアやセンタニ湖周辺部では、少なくとも3,200名が戦死、転進作戦では、東部ニューギニアからの転進者も含め、およそ1万人が、主に餓死した。
すでに、ジャヤプラ→サルミの車窓は、38回シリーズでその動画を紹介したが、その逆のルート、すなわちサルミ→ジャヤプラの約320Kmを収録した動画を45回シリーズでお届けしたい。西部ニューギアから新たな旧日本兵の遺骨情報が Nasib Tentara Dai Nippon
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トゥム村から望むワクデ島(Pulau Wakde
dari Kampung Tum)








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