歩兵第223連隊第6中隊 西村秀三郎伍長が語るマピア戦
昭和59(1984)年6月、西村秀三郎さんは、戦後39年ぶりにマピア島を慰霊巡拝。
B-25G(装甲及び搭載燃料を増加した75mm砲搭載型B-25の量産型)機は、1944年11月12日、西部ニューギニアのサンサポール(Sansapor)近くのマール(Mar)飛行場から飛び立ち、北東約275kmの太平洋上に浮かぶマピア諸島攻撃に向かった。ちなみに連合軍は、1944年7月末にサンサポール付近に上陸、9月末には、中爆撃機陽のマール飛行場を完成させ、それ以前には、洋上のミッドゥルバーグ(Middelburg)島に戦闘機用の滑走路を造った。
画像は米軍が撮影した当時のマール飛行場の光景。マール村沖合に艦船が集結している(USAAF:Pasific Wreks.com)
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)ソロン
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_18.html
1944(昭和19)年8月2日~11月18日の米極東空軍(Far East Air Force = FEAF)によるマピア諸島・ペグン島に対する連合軍のミッション
1944年8月2日: FEAFの戦闘爆撃機によるマピア諸島への攻撃
1944年11月12日:FEAFの50機以上のB-25(爆撃機・愛称はミッチェル=Mitchell)によるマピア諸島への攻撃
1944年11月15日:FEAFのB-25と戦闘爆撃機による米陸軍マピア諸島上陸作戦支援。米第31師団第167連隊がペグン島へ上陸。
1944年11月16日:FEAFのB-25による上陸部隊支援。
1944年11月17日:FEAFのB-25による上陸部隊支援継続。
1944年11月18日:FEAFのB-25による上陸部隊支援継続。
米陸軍第13航空群第42爆撃群第390砲撃飛行隊(USAAF 13th AF 42nd BG 390th BS)所属の爆撃機の搭乗員は。
パイロットはJohn H. Carroll Jr少尉、副操縦士はWilliam H. Gill少尉、無線電信は三等軍曹Edward Gerstenzang、砲手は三等軍曹Alva F. Gumlaw、および三等軍曹Charles W. Lunsford、計5名が搭乗したこの爆撃機B-25G-10 Mitchell(Serial Number 42-65142)は、1944年11月12日、ペグン島で炎上墜落。
米軍側資料によれば、同機は、低空での爆撃・砲撃任務にあたっており、日本軍の対空砲火によって撃墜されたものとされている。しかし、日本側の『歩兵第二百二十三聯隊史』の豪北編第六節の「小幡第六中隊の消息」には、その記述はない。同書によれば、ペグン島での米軍機墜落の模様は次のように書かれている。
「敵の銃爆撃は絶えることなく、二~三日毎に繰返し襲来する。五月頃敵飛行機の一機は、ペガン(注:ペグン)島南端より超低空で飛来したが、椰子の木に尾翼を引っかけ墜落炎上し、四人の搭乗員は全員死亡したこともあった」と。
墜落の時期や搭乗員数で、日米の記録には相違がある。特に、日時の差異ははなはだしい。しかしながら、米軍は11月15日の上陸後、墜落機体を確認しており、さらに遺体も収容し、搭乗員全員の身元確認も行った。つまり、11月12日の墜落は、ほぼ間違いない事実と言ってもよい。では、なぜ日本側にその認識がなかったのか? それは、小幡中隊の行動経緯から読み取れる。
再び『歩兵第二百二十三聯隊史』の豪北編第六節の「小幡第六中隊の消息」を開いてみよう。そこには、猛烈な銃爆撃を受けた中隊が、まさにペグン島を放棄し、北側に浮かぶブラス島へと戦線を移動させた史実が次のように描かれている。
「昭和十九年十一月十三日、早朝よりペガン島は猛烈な敵機の銃爆撃にさらされた。同島南部より進入した三機による二編隊の敵機B24(注:正しくはB-25か)は、島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加える。小幡隊将兵は次々と斃れて多数の死傷者を出し島の北方に退避せざるを得なかった。敵機はペガン島南半分を焼野原と化する程の爆
撃を行い、夕刻になって漸く引きあげていった。敵明らかに上陸の企図ありと判断した小幡隊長は、翌十四日の敵の空襲を避けるため、十三日夜、ペガン島を放棄し、北のブラス島に移動する決心を固め部下将兵に命令した。小幡隊は十三日夜陰に乗じ、干潮を利用して北方のブラス島へ移動した。武器、弾薬、糧秣の一部を残置した。小幡隊の将兵は上陸前より逐次死傷者が続出し、百名以下に減っていた」
米爆撃機のペグン島墜落は11月12日。そして小幡隊のペグン島放棄が11月13日夜。ペグン島は南北約4.4km、東西最大幅約450mのイモムシのような形をしている。当初、小幡隊本部はペグン島南部に置かれていたが、11月12日以降の敵爆撃機による猛爆・銃撃を考慮すると、11月12日~11月13日にはペグン島の中部か北部地帯へ移動していた可能性もある。そうであれば、米機の墜落地点が島の南部だった場合、あくまでも推測ではあるがそれを目撃できなかったかもしれない。従って、その事実が戦記に記録されなかったとも。米側の記録が正しく、確かに日本軍の対空砲火で炎上墜落したものであれば、それは小幡第6中隊の特筆すべき戦果としても過言ではない。しかし、今や事実を知るすべはない。歴史の彼方に消え去ってしまった。
でも、と思う。仮に、小幡隊が目撃した“五月頃、敵飛行機の一機が墜落し、四人の搭乗員が全員死亡した”と記した件が、実は11月12日の出来事であったのならば。人数に一名の差があれこそ、米側史料とほぼ符合する。自らの被害状況を比較的、客観的に記録したであろう米側史料に、五月頃のペグン島での墜落について一行の記述もないことが非常に気にかかる。
歩兵第223連隊第6中隊 西村秀三郎伍長が語るマピア戦
https://youtu.be/Q9xdnGNKZVE
さて、アップした動画は、西小島派遣決死隊の班長を務めた西村秀三郎元伍長の肉声で語り継ぐマピア戦。終戦39周年にあたる昭和59(1984)年8月15日にNHK秋田放送局によって報じられたラジオ第一番組『おはようラジオセンター』の集録版である。NHKのインタビュアーは、西村氏の名をシュウザブロウと紹介したが、正しくはヒデサブロウ。西村さんは、放送から13年目の平成9(1997)年11月20日、秋田県雄勝町(現湯沢市)で逝去。享年78歳。
コロナ禍の真っただ中で行われた東京五輪、そして76回目の終戦の日。マピア戦は、西村さんの孫世代によって語り継がれている。
歩兵第223連隊第6中隊 西村秀三郎伍長のマピア戦
https://youtu.be/tvbZNK7BZKM
玉砕のマピア島から生還した秋田県人 『歩兵第二百二十三聯隊史』小幡第六中隊の消息
https://gbitokyo.seesaa.net/article/202109article_14.html
歩兵第223連隊第6中隊戦記
https://youtu.be/2tIBKTNXEGY
【マピア戦とは?】
13年前の2008年12月21日にアップした、太平洋戦争の激戦地の中でも、余り語られることのなかったマピア(Mapia)島の玉砕戦。戦後に著された国内外の幾つかの戦史では、マピア諸島に派遣された、歩兵第223連隊第2大隊第6中隊(注:第二軍や第35師団、第36師団の関係者は、第7中隊と表記しているが、正しくは小幡猛夫中尉指揮下の第6中隊)は、151名の総員が玉砕したとされている。
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島
https://gbitokyo.seesaa.net/article/200812article_22.html
しかしながら、その後の資料収集過程で、あらたな事実が見つかった。戦後35年目の昭和55(1980)年8月24日に、秋田県雪部隊親交会(注:第二軍隷下でサルミ(Sarmi)に拠点を置いた第36師団)によって発行された『歩兵第二百二十三聯隊史』の豪北編第六節の「小幡第六中隊の消息」。
この記録によれば、サルミからのマピア諸島派遣時点での小幡隊の総人員は151名。内訳は、小幡第6中隊が128名。速射砲分隊が13名。連隊無線分隊が10名。これに、経由地のマノクワリ(Manokwari)から第2軍工兵分隊の6名が加わり、総勢計157名。そして部隊は、5艘の小船で昭和19(1944)年4月9日夕刻、マノクワリを出港、翌10日、マピア諸島のペグン島(Pegun・日本軍はペガン島と呼んだ)に上陸。
それからおよそ7ヶ月後、米軍は、事前の激しい艦砲射撃・空爆に次いで、11月15日、水陸両用戦車をもって、ペグン島と、ブラス(Bras)島に上陸作戦を敢行。そして、この日をもって、マピア諸島の日本軍玉砕の日とされてきた。米軍公刊戦史も、11月15日を同島の制圧日とし、日本軍将兵の玉砕数は151名であったと記録している。
1944年11月15日、米軍によるマピア諸島上陸作戦を支援した米航空部隊が撮影したペグン島(U.S.Army)
1944年11月15日、米軍によるマピア諸島上陸作戦が始まった(U.S.Army)
史実と事実は、紙一重で異なることがある。まさに、それは大波が襲えば消えてしまいそうな、海抜わずか1mの、扁平のサンゴ礁の小島群で起きた。敵軍に制空・制海権を完璧に握られ、さらに小舟やカヌーさえ持たない小幡中隊。一方で南に位置するペグン島に残置してきた患者、糧秣、武器弾薬を、中隊が移転してきた、北のブラス島に移送するため、小幡中尉はブラス島の西北西およそ3kmに位置するファニルド島(Fanildo・もしくはバニルド・Vanildo。日本軍は西小島と呼称。当初は現地人がいたが、米軍は数日前に大爆撃を住民に予告し、島外へ退去させていた)で住民が持っているであろうカヌーを入手するため、米軍上陸前夜の11月14日夜、「西小島派遣決死隊」の志願者を募った。
これに果敢に応じたのが、後に玉砕を免れることとなった四名。西村秀三郎伍長、西根正兵長、小玉幸之助上等兵、安保庄司一等兵。全員、秋田県出身者だ。運命とは、まさに神のみぞ知るのか。先任班長となった西村伍長以下四名は、同夜、干潮で海面が下がったとはいえ、首近くまで海水が浸かるバリアリーフ(堡礁・ほしょう)を、褌一つの姿で、手榴弾二発を手に、西小島へ向かった。
しかし、そこにカヌーは無かった。そして戦況は激変した。翌11月15日払暁、西小島から臨むペグン島とブラス島は、航空母艦を含む敵艦隊26隻に包囲され、猛烈な艦砲射撃と空爆に見舞われていた。昭和19(1944)年11月15日、ペグン島、ブラス島の友軍は潰滅、戦車で蹂躙された戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。15日深夜、ブラス島に戻った四名は、まさに地獄絵図を見た。
実は、この戦闘で生き残った兵士がいた。桑畑兵長(マノクワリの第二軍から小幡隊に加わった工兵分隊の一人)。昭和20(1945)年5月頃、四名は敵軍が退去したブラス島内で潜伏自活を営んでいたが、偶然桑畑兵長と遭遇し、以降5名で隠れ穴での暮らしが始まった。しかし、一ヶ月後の6月、桑畑兵長は、島に狩猟にやってきた現地人によって射殺された。しかし、生前の桑畑兵長の証言によって、小幡隊玉砕の模様も明らかになった。もはやこれまでと最期を決意した小幡中隊長以下約30名は、散兵壕内で手榴弾を使い自決。
再び、四名のみとなった決死隊西村班は、マピア諸島からの脱出を計画した。海岸に打ち上げられたドラム缶を縛って筏を作り、夜間に航行演習を行い、ニューギニア本島への脱出決行日を待った。四名が乗った筏は、昭和20(1945)年8月頃、八日間の漂流の末、マピア島から直線距離で約205km、西部ニューギニアのマノクワリとハクハクの中間点に位置するインボアンと言う名の村に辿りついた。そこで、四名は初めて日本軍の敗戦で戦争が終わっていたことを知る。祖国の地を踏んだ生還者4名。つまり、同諸島での戦没者数は153名となる。合掌。
インボアン村は、現在の西パプア州、マノクワリ県アンベルバケン(Amberbaken)郡最西部にあるインブアン(Imbuan)村と推察される。
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昭和59(1984)年6月、西村秀三郎は、遺族らとマピア諸島を訪れ慰霊巡拝。
昭和59(1984)年6月、戦後初の慰霊巡拝団がマピア諸島を訪れた。
昭和63(1988)年6月、マピア諸島のブラス島に建立された供養塔・観音像
【参考動画】
Cerita Perjalanan Ke Mapia Island Pulau Brass-Papua Indonesia(2019/07/30)
ブラス島紀行
https://youtu.be/1yK1hhXVfCs
Ekspedisi Batas Negeri Kepulauan Mapia, Supiori Barat, Papua(2019/03/12)
西スピオリ県マピア諸島・国境探検
https://youtu.be/7cYja3Si17Q
公立マピア小学校を訪ねて
Berkunjung Ke SD Negeri Mapia(2020/08/25)
https://youtu.be/SwtLKhHLB3M
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