西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(63)

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終戦の前年、昭和19(1944)年7月31日未明。西部ニューギニアの北岸、マンベラーモ(Mamberamo)川の河口からおよそ38km南に位置するロンベバイ湖(Danau Rombebai)で、大日本帝国陸軍の特務機関部隊が連合軍水上基地を奇襲攻撃した。第二軍隷下の第36師団指揮下、陸軍中野学校卒の日高岩男少佐が率いる神工作隊は、午前1時過ぎ、総員16名、4隻のカヌーで敵基地が置かれた、小さなヤピナ(Yapina)島へ奇襲攻撃を仕掛けた。工作隊は、3名が戦死、1名の行方不明者。3名の犠牲者は、隊長の日高岩男少佐、杉沢武雄軍曹、そして村瀬兵長。行方不明者は、負傷し、連合軍の飛行艇で連れ去られた小泉雅少尉。
日高岩男少佐(戦死に伴い中佐に進級)は、祖国に妻ミチエと1歳7ヵ月の幼子、武臣を残し、西部ニューギニアで二番目に大きな湖の孤島ヤピナに散華。27歳と6ヵ月の若さだった。今日は太平洋戦争開戦80年。終戦から76年。日高少佐の戦死から77年。亡骸は今もヤピナ島に眠っている。
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日高岩男大尉の遺品の中に、おそらく戦後祖国生還を果たした部下が持ち帰ったものと推定される、三枚のわら半紙がある。サイズが共に22 X 28cmの二枚には、日高自身が鉛筆で描いたスケッチ画。マンベラーモ川踏査中、最も長く滞在したローハール川とイーデンブルグ川の合流点に設けた拠点で描いたものと思われる。No.3と記された一枚は、緩やかに合流し、大河マンベラーモ川になる二つの川の様子が遠近法で描かれている。左端には宿舎、そして四本の大木、三本の椰子。青の色鉛筆でうっすらと着色された川面と上空には四羽の鳥が。このNo.3との表記は、別の用紙に描かれたマンベラーモ川流域地図に記された「図 No.3」がローハール川とイーデンブルグ川の合流点にあることから、間違いなく合流点の光景を描いたものと断定できる。但し、宿舎と思われる小屋は、平屋建てで切妻造り。一方、日高に同行した鰐工作隊の徳野明元曹長が著した『鰐部隊とパプア人マンドル』(昭和45年8月15日、今日の話題社発行)に挿入された徳野自身が描いたスケッチによれば、合流点の宿舎は二階建てだ。また、徳野は宿舎の場所を「合流点から東北へ二〇〇メートルほど入ったところ、水位より二メートルほど高い地形だ。ここなら増水しても心配あるまい。しかし万一を考慮して高い二階建てとした」と書いている。
一階部分は、器具や食糧の保管場所兼炊事場。二階が宿舎。一階を炊事場とすることで、煙で防蚊対策ができる。立木を応用する現地住民の方式で建てられ、「大きな棟には日高隊長、小泉少尉、通信隊員、別棟は私が責任者となり、警備隊、衛生兵、軍警ユーヤナンの割り当てが決った」と、徳野は書く。つまり、日高が描いた平屋の小屋は、河畔に設置された監視所と思われる。鰐工作隊は、マンベラーモ川の各地で宿舎を設定する場合、必ず、川面に近い場所に監視所を設けることを常とした。

このNo.3のスケッチ画の裏面右半分には、ロンベバイ湖のヤピナ島を攻撃する作戦を練ったものと想像できる、地図が描かれている。湖の東北端には黒い■と小さな○。ヤピナ島を指し示している。また、マンベラーモ本流から湖に注ぐ、長い半島状の地形も描かれ、湖の南西端には、黒い■。これはヤピナ島攻略作戦の際、出発したカヌーの船着き場と思われる。そして、その南側に集落風の印し。これは鰐工作隊の前進基地と思われる。さらに、その西方には丘を示すような地形と、黒い■。ここは、マンベラーモ川左岸に位置する小高い密林で、鰐工作隊は「八〇高地」と呼んで、ヤピナ島奇襲作戦前には、工作隊の拠点となった。また、湖の北岸には、マンベラーモ川と繋がっている細い河川も描かれている。この川は、ヤピナ島攻撃の際、新穂智少佐率いる神工作隊が、ロンベバイ湖北岸に潜行する際に利用したものだ。湖の西岸中央部では、本流から半島状の水路を通ってマンベラーモの水が流れ込む。現在の衛星画像で見ると、その半島状水路は、長さがおよそ7.6km。おそらく戦中は、徳野が描いたように、本流が増水する時期は、半島状水路が水没し、直接湖と繋がっているように映ったのだろう。あるいは、その半島状水路は現在よりも遥かに短いものだったと思われる。

2017年01月31日
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(12) 2017年01月31日掲載
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201701article_31.html

番号なしのスケッチ画の裏面中央には、日高少佐がヤピナ島攻略作戦を練った際に書いたと思われる楕円形のロンベバイ湖地図が描かれている。そして右下には島とカヌーの隊列とおぼしき図が。また、左端には、祖国から西部ニューギニアに至るまでの自らの行程と思われる書き込みもある。朝鮮半島、台湾、フィリイン、ハルマヘラ、アンボン、そして恐さ竜の形をしたニューギニア島が描かれてある。これらの図から何が読み解けるのか。

まずロンベバイ湖の図。左端に30と□で囲んだ31の数値があるが、これは昭和19(1944)年7月30~31日の、ヤピナ島奇襲攻撃の日時と重なる。湖の南岸沿いに日高岩男少佐以下16名の鰐工作隊・南方攻撃隊。そして北岸沿いに東進する、新穂智少佐率いる神工作隊・北方攻撃隊。鰐部隊は7月30日の夕刻、薄暮を突いてロンベバイ湖南西端の船着き場を出発。おそらく神部隊も7月30日夕刻に、マンベラーモ川本流を下り、途中で湖に注ぐ水路に向かったものと推測される。図の右端には■のマークと「30-31-」とあり、その下には「731日12時31m 3-4」と書き込まれている。これは、「7月30日~31日以降」、「7月31日12時」を意味することは間違いないが、「31m」が31分を意味するのか、それとも31㍍、あるいは消し忘れなのかは不明だ。「3-4」は、「午前3時~4時」か「8月3日~4日」を指していると推測される。鰐工作隊による奇襲攻撃は、神工作隊との約束上は「8月1日午前2時」で、実際には「7月31日午前1時」に敢行されている。

この図が、奇襲作戦を熟考する過程の一案であり、最終決定ではないものと仮定すれば、いずれにせよ7月30日(日曜日)もしくは31日(月曜日)頃に作戦を実行しようと考えていた時期もあったことを傍証する。休日である日曜日、もしくは休み明けで気も緩む月曜日を選ぶことは、中野学校で秘密戦の教官も務めた経験がある日高少佐ならば、至極当然のことだろう。ちなみに真珠湾奇襲攻撃は、昭和16(1941)年、日本時間で12月8日未明の月曜日、ハワイ時間では12月7日の日曜日に行われた。

本来は、7月30日もしくは31日の攻撃を考慮していたが、『鰐部隊とパプア人マンドル』で著者の徳野明元曹長が述懐するように、ヤピナ島の地形偵察行をやり直した経緯もあり、両部隊による決行日が結果的に「8月1日午前2時」と決められと思われる。しかしながら、現場に到着した7月30日深夜から31日未明において、ヤピナ島の敵の警備状況などを勘案して、その場で日高少佐が鰐部隊単独での先制攻撃を決めた。「なァに、あのくらいの敵兵なら、鰐工作隊だけでじゅうぶんだ。それに、手榴弾の爆発音を聞けば駆けつけるだろう」(『鰐部隊とパプア人マンドル』から引用)と、日高は判断し、神工作隊へ決行時間の変更を直ちに伝える手段もないことから、7月31日未明の単独攻撃敢行となった。

さて、この番号なしのスケッチ画には、6箇所にわたって、おそらく鉛筆で書かれたと思われる、判読が極めて困難な文字跡がある。色々なスキャナーを用いて判読を試みたが、いずれも失敗。残る手段は赤外線スキャニングとの結論に。しかしながら、問題はその費用。歴史文献や図面、地図などの紙媒体をデジタルスキャナを専門とする幾社かに問い合わせてみたが、なかなか手が届く見積額を提示してくれる所はない。そうこうしている内に、光陰矢のごとし。日高中佐のご遺族からスケッチ画をお借りしてから5年も経ってしまった。本当に情けない想いと共に、ご遺族には弁解の余地などないほど申し訳ないと思い続けてきた。もはや甘えも限界。意を決して高額な特殊スキャニングに一縷のの望みを賭けた。

その結果は、100%の満足を得るものではなかった。当然と言えば当然だろう。77年も前に、しかも赤道直下の高温、高湿度のジャングルの中で、けっして上質とは言えない紙に鉛筆で記された文字が、一部であるにせよ蘇ったことに、とてつもない感動を覚えた。防諜のプロでもあった日高少佐にとって、私的なメモだったのかもしれないが、結局は残すことを躊躇し、消した文字跡が、最新科学技術によって、一部であるが浮かび上がった。一番文字量が多いと思われる紙面右端部分(ロンベバイ湖の図の右側)は是非とも解読したい箇所だったが、それは叶わなかった。その最大の理由は、裏面にちょうど大木が描かれており、そのためデジタルスキャニングの過程で、裏面の情報(大木の図)が透過してしまい、片面の文字群に被ってしまうからだ。それでも濃度を強めてたスキャンでは、幾つかの文字が炙り出された。

まず、左上部の「11.4日 5夜」とあり、その下に「8日 9」とある部分だが、スキャンの結果、その間に「釜山」、9の右側に「出帆」の文字が現われた。日高少佐自身が書き残したマンベラーモ川流域行動記録図の裏面に記されたメモによれば、日高は、昭和18(1943)年11月6日、下関を出発し釜山へ向かい、そして11月8日に釜山を発ち、台湾、フィリピン近海を経由して、ハルマヘラ島経由アンボンへ向かったものと思われる。アンボンに11月20日頃到着、そして翌昭和19(1944)年1月7~8日頃、第2軍司令部が置かれていたマノクワリ(Manokwari)に到着している。その後は、1月13日にマノクワリを発ち、1月17日、海路で第36師団(雪部隊)司令部が置かれたサルミ(Sarmi)に到着した。

一方、宮崎県が作成した戦没者整理名票によれば、日高岩男大尉(当時)は、昭和18(1943)年11月5日に「南方派遣のため門司港出帆」と記されている。このことから、「11.4日 5夜」の5夜とは、おそらく門司港を出帆した日付と考えていいだろう。では、「11.4日」とは? これも、おそらくだが、釜山へ向かう船舶に乗船した日付か、あるいは門司港に到着した日と推定できる。
ちなみに、図面の左下に描かれたアンボン島の上には「19軍」と記されていたことがスキャンの結果、判明した。第19軍(堅部隊)は、当初は南方軍に編入され、後に第2方面軍の隷下に入った陸軍部隊で、アンボンに司令部を置いた。所属部隊は、第5師団、第46師団、第48師団。

恐竜のような形に描いたニューギニア島の北岸には、ビアク(Biak)島の文字がスキャンによって判読できる。そのすぐ左側に四文字と思われるカタカナ記述がある。位置的にはヌンホル(Numfor)島にあたるが、残念ながら判読不明。ニューギニア島の中央部には縦に太い線が描かれているが、これは東経141度線で間違いない。当初は、東経141度を境に東部ニューギニア(第18軍管轄)と西部ニューギニア(第2軍管轄)の軍区分がなされていた。この太線の右にはホランジアと読み取れる。現在のパプア州の州都ジャヤプラだ。また、太線の左側には雪の一字。これは、第36師団(通称雪部隊)の司令部が置かれたサルミを指す。薄く、サルミと書かれた跡も見える。また、そのサルミ付近から、南の山岳地帯に向かって太い線が伸び、その先が左右二つの太線となっている。これは、マンベラーモ川と、合流点に向かって西進するイーデンブルグ川(現Taritau川)と東進するローハル川(現Tariku川)。合流点の南側に楕円形の印があるが、これはハツヘマ(ハベマ/Habema)湖の位置を記したもので間違いない。この湖こそ、当初、日高少佐率いる鰐工作隊(鰐部隊・鰐機関)が目指すことを命令された中央高地の拠点となる場所だった。ここを拠点に、中央高地の諸部族を糾合し、遊撃戦を展開する計画だった。

左端上の「11.4日 5夜」表記の右側の日本と朝鮮半島の地図上部に判読不明文字があるが、この部分は赤外線スキャニングによって大方が解読できた。左から日高、徳野、その下にハツヘマ。徳野は中野学校卒の徳野明曹長、ハツヘマは当初工作目的地とされたハツヘマ湖と理解できる。その右に、高橋もしくは高城、あるいは高坪とも読めるような二文字。その下には○ヤクとも読めそうなカタカナ。仮に、高城と読むならば、ビヤク(ビアク)島に派遣された梅工作隊(隊長は桜井大尉)の高城曹長とも考えられる。昭和18(1943)年秋ごろ、陸軍中野学校の教官であった日高大尉(当時)や助教の徳野、森、林田、高城、大江五名は、西部ニューギニア第2軍司令部情報部付として急遽派遣を命じられていた(徳野明著の『鰐部隊とパプア人マンドル』。ちなみに高城溜曹長は、昭和19(1944)年9月10日、ビアク島で戦死。

次に記されている森は、おそらく虎工作隊(隊長は原精造大尉)所属の森清之曹長と思われる。とすると、森の字の下に書かれた文字は、○ルミと読み取れるところかあらみて、おそらくサルミであろう。その右に、大江の文字、その下に判読できない二文字。この二人の名前の下にホランジアとある。とすると、この両名はホランジアを拠点とした神工作隊の新穂智少佐と大江孝吉曹長と理解してよい。大江は、ホランジアで戦死したとされ、新穂少佐は、オランダ軍の軍事法廷で死刑を宣告され、戦後の昭和24(1949)年3月3日、祖国横浜に妻子を残し、銃殺刑に処せられた。その右には林田の文字、そしてその下にマノクワリとある。これは、林田正八曹長を指しているものと思われる。林田は、第2軍司令部情報部に属し、マノクワリからヌンホル島へ派遣され、昭和19(1944)年10月5日、モアリで戦死と記録されている。

祖国日本から西部ニューギニアに至るまでの道のりを、回顧するかのように描かれた地図。そして、自身の最期の戦いの場となったロンベバイ湖ヤピナ島水上基地攻略案図。どんな想いで、鉛筆を走らせたのだろう。陸軍士官学校卒、陸軍中野学校卒の、27歳と6ヵ月の若き秘密戦士は、冷静に描かれた図面からは余りにも想像もできない壮絶な戦死を間近に、何を思い、何を願い、何を厭わなく、何に希望の光を見て、この一枚の図面を描き上げたのだろうか。想像するだけで、余りにもの歴史の定め、歴史の無常さを禁じ得ない。

紙面の右下、6隻のカヌーと思われる図の下にも、幾つかの文字がある。しかし、電子スキャニングを用いても、判読できるのは左端の、兵1の記述のみ。奇襲攻撃用のカヌーの人員配置を記したのか。教えてもらいたくとも、主人公は77年前に幽明境を異にした。
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最後に、ロンベバイ湖の右隣。裏面には大木が描かれた箇所には、7行の縦書きの文字が並ぶ。それは、西部ニューギニアに展開する、第36師団隷下の工作隊を列挙したものであった。右から左へ、以下のように工作隊名と隊長名が書かれている。
「ビ 梅 桜井少佐」は、ビアク島に派遣された桜井義雄大尉(中野学校・3丙卒)率いる「梅工作隊」(ビアク工作班)のことだろう。ビアク島には、昭和19年5月27日、連合軍が上陸し、1万名を超える将兵が戦死。“玉砕の島”となった。このことから、日高は桜井大尉に、一階級進級の少佐を冠したものと思われる。

次は、「鰐 日高少佐」とあり、これは日高少佐率いる「鰐工作隊」(ハッヘマ工作班)のことだ。そして、「虎 原大尉」は、師団司令部があるサルミ周辺部を宣撫工作した、別名「サルミ工作班」の、原精造大尉(中野学校・乙II短卒)率いる「虎工作隊」。その左には「龍 内山大尉」とある。これは、サルミとホランジア(現ジャヤプラ)中間地点のゴアイを拠点に工作活動を行った、別名「ゴアイ工作班」の、内山守衛大尉(中野学校・乙II短卒)が隊長を務める「龍(竜)工作隊」を指す。その左には「ウ 小川大尉」とあるが、これは中央高地のウイッセル湖に派遣された、小川勇大尉(中野学校・乙II長卒)率いる竹工作隊(ウイッセル工作隊)に間違いない。6行目は、上部は判読できないが、下に「百名」の文字がある。そして左端の最後の行には「マンベラモ河」とある。

判読努力は今後も続けたいと思う。だが、現在筆者の手が届く解読方法は、以上の分析が限界と言わざるを得ない。記述することは、歴史を後世に書き残すことでもある。その意味で、日高少佐は、確実に歴史を書き残した。しかし、もっと知りたい、もっと教えてほしい。77年前に、マンベラーモ川流域で、ロンベバイ湖で、そしてニューギニアで、さらに、いわゆる大東亜共栄圏で起きた出来事を。今日は太平洋戦争開戦80年。今日の歴史は、昨日の歴史の延長線上にある。

西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(1)

https://youtu.be/qzaMsL7TRpg


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ロンベバイ湖図の右側にある“読めない文字列”

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丸木舟図の下にある解読不明の文字列

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背広姿の日高岩男。陸軍中野学校を卒業し、西部ニューギニアへ派遣されるまでの、昭和17(1942)~昭和18(1943)頃の撮影と思われる

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ロンベバイ湖の図(拡大)

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マンベラーモ川流域作戦行動図
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ヤピナ島攻撃略図(『鰐部隊とパプア人マンドル』より引用)

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後列右よりミチエの実父の高橋正次、左は日高岩男の実母の日高トナ、前列左より日高岩男、日高正代(岩男の末妹)、そして岩男の妻・ミチエと抱きかかえる長男の武臣。昭和18(1943)年11月、日高大尉の西部ニューギニア出征前に撮影されたものと思われる

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中野学校実験隊教官として“に号部隊”の水中訓練中の日高少佐(『鰐部隊とパプア人マンドル』徳野明著・昭和45年8月15日、今日の話題社発行より引用)


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陸軍中野学校本校校舎(昭和53年3月10日、中野校友会発行『陸軍中野学校』より引用)

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ヤピナ島の日高岩男少佐の埋葬地を指さすレオン・サヨリ氏。2015年5月24日撮影。

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昭和18年10月、ニューギニアへ出発前の日高大尉(当時・右)と徳野軍曹(当時・左)。日高大尉は19年3月少佐に進級、徳野軍曹は18年12月曹長に進級。画像は徳野明氏著の『鰐部隊とパプア人マンドル』から引用
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徳野明氏が描いたヤピナ島スケッチ画。『鰐部隊とパプア人マンドル』より引用)

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ヤピナ島遠景。『雪第三十六師団戦誌』より引用。小泉雅氏提供とある。

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マンベラーモ川からロンベバイ湖に入る。遠方の丘の手前にヤピナ島が浮かぶ(2015年5月24日、レオン氏撮影)

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参考ブログ

西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(62)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_22.html

西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(61)~(1)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_21.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_20.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_19.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_18.html
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https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_9.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_8.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_7.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_6.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_5.html
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https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_3.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_2.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201703article_1.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201702article_30.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201702article_29.html
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201702article_28.html
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https://gbitokyo.seesaa.net/article/201701article_20.html


西部ニューギアから新たな旧日本兵の遺骨情報が Nasib Tentara Dai Nippon
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201412article_17.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(5)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201411article_16.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(4)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201410article_29.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(3)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201410article_25.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(2)
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201410article_24.html
西部ニューギニアから祖国帰還を果たしたとされる“ご遺骨”だが
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201410article_10.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201410article_8.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵、そして生き続ける三八歩兵銃
https://gbitokyo.seesaa.net/article/201409article_26.html
「大東亜戦争」関連ブログ記事
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/theme/43f9afaef5.html

参考動画

太田敏子さんが語る故新穂智少佐・神機関工作隊長(13)~(1) Major Satoru Niiho & Toshiko Ota

https://youtu.be/u4ghF3-607U
https://youtu.be/dpPUMcr6Syg
https://youtu.be/eMSDrA0yYFg
https://youtu.be/k3Q45m4Ab1I
https://youtu.be/SFcosVf6JDs
https://youtu.be/gISKzdCHnzQ
https://youtu.be/ZzvWSyS1AeM
https://youtu.be/GkVXs-YDEdA
https://youtu.be/IAiz3UG32RY
https://youtu.be/17L4nhXTEnI
https://youtu.be/pJtPtR1jyiw
https://youtu.be/kLRsy8wN3j8
https://youtu.be/mTifvX_dI7A

新穂智少佐の西部ニューギニア横断記「第5部」 (37)~(33) Major Satoru Niiho's West New Guinea

https://youtu.be/DPrhIlYgcds
https://youtu.be/yOy_Df4gCg4
https://youtu.be/XGEC1So2jCw
https://youtu.be/3zaND3i589Y
https://youtu.be/cgv_vElYbJg

新穂智少佐の西部ニューギニア横断記「第4部」 (32)~(27) Major Satoru Niiho's West New Guinea

https://youtu.be/ODVmX1C3CrI
https://youtu.be/FY5hkl__d3o
https://youtu.be/X7xevgJpPKw
https://youtu.be/khratcaZLj4
https://youtu.be/WZY7BzNnkgg
https://youtu.be/xEJxFwMwJ_U

新穂智少佐の西部ニューギニア横断記「第3部」 (26)~(20) Major Satoru Niiho's West New Guinea

https://youtu.be/C0gb0Ebpaw0
https://youtu.be/_uKp3R3dfWo
https://youtu.be/Xbjb4-yj6WI
https://youtu.be/KMsuJ2AWVtE
https://youtu.be/t-Q6lCwtpic
https://youtu.be/WRHowrZQwQM
https://youtu.be/hr0_tIkULwk

新穂智少佐の西部ニューギニア横断記「第2部」 (19)~(11) Major Satoru Niiho's West New Guinea

https://youtu.be/nekVoOIEeag
https://youtu.be/ODa6TIhOqOs
https://youtu.be/DqGPgFN2xNE
https://youtu.be/wxdgXrwsx10
https://youtu.be/S3knntKBZa8
https://youtu.be/EQo9dBIGcMk
https://youtu.be/x-iYOVg82CU
https://youtu.be/gZ5ocWeSABk
https://youtu.be/8AMVqSUJ_G8

新穂智少佐の西部ニューギニア横断記「第1部」 (10)~(1) Major Satoru Niiho's West New Guinea

https://youtu.be/bS90catYOlQ
https://youtu.be/9PUEGmVvKBU
https://youtu.be/pqNRMh2vFy8
https://youtu.be/ImbfxMIXCgM
https://youtu.be/fEIq-fNKcds
https://youtu.be/tG5MpPqH1QQ
https://youtu.be/5JURz97VbCs
https://youtu.be/t5-E1R8W2XE
https://youtu.be/eG7o-giOgk4
https://youtu.be/FzKN7LNQVug





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